高校段階での文理融合の議論は文学部以外の2次を数3必須にするだけで消える

最近、文科と経産がそれぞれ教育のあれこれを出した。

それを読んでの感想として、文理融合に着目していたエントリを見た。これを見て思ったことを書く。

1回生数学まで文理共通とすれば大半は肩がつく話

文科側では、微分方程式線形代数ベイズ統計などがデータサイエンスに必要だから文理問わずやる必要がある、とのことが書かれている。しかし、従来から、こんなものは文系でもやらざるを得ないところはやらざるを得ない。一部の文系界隈では、すでに「微積線形代数はできないほうが悪い」(あるレベル以上の組織では)という話になっているはずである。

要はこれって一回生数学と、それを理解してから派生的に理解するべきことですよね。確率・統計は2回生配当することもあるけど。神永先生の本でいうところの数学IVになるというとこまでが求められているということになると思う。

情報やるのに理科が必要?

「文理融合」の単語が出てくるたびに、その「文理融合」に理科は必要ですか?となる。物理(簡単な力学)は必要なケースは出てくるかもしれない。でも、生物・化学いりますか?電磁気・波動・原子物理必要ですか?どうしても高校のときにやっておかないとだめですか?後から独学できない?

だいたい、1回生数学がわかっていれば、大抵の理科は後から学ぶことができるのでは?そう思うのである。

人文・社会・自然に分類すれば良いだけ

ここでいつもの持論になる。結局は、文理という分け方が大雑把すぎるのである。分けることそのものが問題ではない。よって、分類を少し細かくすれば問題は解消できる。すなわち、人文科学・社会科学・自然科学にわければ済むだけの話である。そして、情報系の学部は社会科学側の類型でも受験可能ということにしてしまえば良い。そうすれば文理融合という大風呂敷など広げる必要はない。

社会科学は

  • 数学は理系数学を出題(統計推測含む・二次曲線と複素数平面は除外)
  • 情報(Iだけで十分)
  • 社会と理科から1個選択

とすれば良いだけである。

今度の情報はモデルとデータの考え方を全面に押し出す。そして、社会モデルをかなり押してくるはずである(なぜなら理科で自然のモデルは扱うからそれと被せない)。経済モデルなども、考えようによっては情報のモデル化の題材として出題できる。情報セキュリティなどでも、社会的センスをかなり問える。よって、情報を試験に出題するということは、社会科学の基礎を出題するということにもなっていると言える。

あとは、まあ理系が理科2個だからなんか1個ぐらいあわせて出題すれば?なだけである。理科・社会から1個選択が得点調整で収集つかないなら、物理・地理総合・政治経済をセットにした試験をすれば良い。物理は原子物理ぐらいは除外で良いでしょう(物理基礎だと何も試験にならないので4単位物理。)。

従来理系にも情報のオプションはつけてあげたい

自然科学側は、理科の選択として情報を認めれば良いと思う。すなわち、理科+情報から2つにすれば良い。学部・学科ごとに指定しても良い。例えば、従来的工学部なら物化指定すれば良い(コンピュータは後から教育するといった考え方)。ただ、数学科・情報学科・物理学科・一部の生物系あたりなら物理+情報の組み合わせなどもありにして良いと思う。

現状の理系の理科の比重が重すぎる

現状、低レベル理系は数学より理科で差がつくようなイメージがある。量は重いし、数学は努力ではどうにもならないから理科に走って最後は勝負かけたほうがうまくいくはず、という事実もある。。

文理融合というときの「理」は高校理科の素養が求められているわけではない。あくまで理系数学が求められているだけである。よって、高校理科の重みを減らさないと、文理融合の資質として求められているものを身につけた人はいっこうに増えない。

理系的な思考を増やすといっても、化学科・生物科の中に相当数いる理論的な思考ができないタイプの人をどれだけ増やしても増やしても(もちろん誤解なきようにいっておくと、化学・生物にも理論的な思考ができる人も山ほどいる)、データサイエンス人材は増えるとはとても思えない。

(さらに少し毒を吐くなら、高校化学・生物をやってたからといって大学にちゃんとつながるかというのも怪しいという話があるとかないとか・・・)

システムがうまく回ってないとこだけ修正すれば済むだけ

いろいろ議論してきたが、結局の問題は「科学的アプローチはしたいけど、興味のある対象は自然ではなく人間や社会である、という人間の受け皿が現状の高校ではない」という一言で終わる。その領域について「文理融合が必要」と世間では叫んでいるようにしか見えない。

ある特定の部分の受け皿がないだけなら、それ用のルートを別に作れば良いだけの話である。

現状の理系に順応できる人は、現状の教育システムのままで問題ない。人文系のもう絶対に何もできない人に数学をやらせるのは無理だからその人たちはそのままで問題ない。

唯一、理系側になびくとしたら、文系の中で自然に対象はないけど科学的手法に興味がある人になる。だったら、そういう人たちに対してそういうルートを作ってやればすのだけの話である。

何も、文理融合と騒ぐ必要はないのである。

自分の場合(余談)

何度か書いているが、理系を選択しなかった大きな理由は、ひとえに理科が嫌だからである。特に化学。これがなければ、数学系や情報系の学部で勉強をしたかったという思いもある。百歩譲って理科の教科内容を勉強するのは良いが、教え方とか色んな意味での拘束に適応できない。よって、正規のルートで理科をやるのは無理なのじある。

で、しょうがないので色んな手で理科を避けながらやりたいことをできるようにして、で、回り回ってイレギュラーなルートで数学や情報を使う感じのお仕事を増やしてきたわけである。

行と行の間隔って誰がいつ教えるのだったっけ?

業務でちょっと面倒なレイアウトの調整をしていた。行間も微調整していたのだけど、そんな中思ったこと。

私はHTMLやTeXで常識を学んだ

日本語の文字を配置する際の行と行の間隔の感覚は、HTMLを生で書き始めたときに学んだ。日本語はデフォルトのline-heightでは狭いので、CSSでline-heightを150%ぐらいに指定しておく、という話の中で初めて意識をした。

ただ、行長があまり長すぎると読みにくいのでほどほどにしておく、はTeXで学んだ。jsarticleの設定の説明を読んでいたときだったと思う。ただ、行長が長ければ長いほど行間は必要を明確に意識したのは、ここ数年で何かの本を読んでいたときである。

構造とデザインの分離も、当然ながらHTML+CSSTeXで自然に学んだ。

「プログラミングをやると普通の道具もうまく使える」を思い起こした

プログラミングを教えることで機械に優しい方法が何か、を早く習熟できるという説が一部である。この話は、それと似ている。HTMLやTeXを学ぶことで、文字のレイアウトとはどういうものなのかについて早く習熟することができる。

Wordでも行間の調整や構造とレイアウトの分離は教えられる(教えたこともある)。しかし、どうしてもいろんなものがかぶさっているため、教えたい部分が濁ってしまうことは否定できない。HTML+CSSTeXほど見えやすい形で教えることができない。

次期課程ではレイアウトの常識には少し触れますが

次期課程の情報デザインでは、(まともに教える場合)文字の配置は構造とレイアウトの分離はある程度は教えると思う。

学習課題例は「情報デザインを意識したWebサイトを作ってみよう」になっていたはず。この課題をやらせる以上、構造をレイアウトに反映させるために余白は適切にコントロールしないとならないし、構造と見た目は分離してコントロールするという話は触れざるを得ない。

教えても定着するわけがない環境

お上は、情報で学んだことはいろんな教科で使うはずだから定着するといっている。しかし、使わない現状がある。使ったとしても、その使った先で指導する教員がわかってないから指導できないという実情がある。

しかし、他の時間は基本がわかってない人が担当するわけですよ?スルーされるし、最悪、情報で習ったことと逆の指示すらしそうですが。情報で教える前後でそんなことされていると手遅れですよ。

私が見てきた光景

スライドに明確な意図もなく明朝を使ってて、模様の上に文字ひっかけてるスライドを指導していない光景を見たことありますよ?何度も。というか、その場合がほとんどでしょう。

そんなのが積み重なって、情報の授業をやるころには「(他のありとあらゆることは緩くしている状況で)私の課題のスライドで明朝使ったら絶対に許さない」と言い続けても、明朝そのままが続出するんですよね・・・

授業はきっかけだけ与えておけばなんとかなる論もあるが

情報で学んだ色んなことについて、意識さえ情報の時間で身につけせておけば、あとはgoogleに聞けるだろうという意見もある。しかし、そんな頭脳を持った人は私の半径3m以内では少数派である。世間は広いから何かが違うのだろうか。

結局、この国で一般人にペーパー試験で罰則をつけられないことについて何かを教育するのは無理といういつもの結論に落ち着くのである。

そもそも時間数わかってる?

情報デザインが教科書でどういう書かれぶりになるのかはわからない。しかし、ここで述べたことは扱うべき必須事項のはずである。しかし、必須事項は山盛りである。小・中で基本操作すらろくに教えていない(総則で教えてることにはしてるが)のだから。

なんとかラーニングがらみで生徒主導でやらせろという縛りもある。

そんなあれこれの現実の中で、たった10時間でまともに教えられるわけもない。 (60/4=15で1単元で、いろんな単元が思いのでだいたい10時間検討で見ておきたい)。

要はクレーマーになってくれなければ良いのです(余談)

まともな人が設定しているデフォルト値にはだいたい理由があるのである。それを思いつきでぶち壊す発言さえしないでくれればどうでも良いのです。

Excelで長いテキスト打ったときの行間の狭さが気になるのっておかしい?

最近、Excel方眼紙風を少し触る機会があった。

案件は、狭い紙に色々なものを詰め込んでいるのを、さらに詰め込もうとしている、というものである。セル結合を解除して罫線を引き直して、とひたすらにやっていくだけである。別に、頭を使わずに作業すればいつかは終わる。

しかし、頭を使わずにやって手直しが入ったとき、もう一回、同じ作業を繰り返さなければならない。特に、少しだけ違うExcelファイルに同一作業をほどこさなければならない管理方式が取られているため、一回あたりの作業の量は減らせるだけ減らしておかないとならない状況である。

線を取る代わりに余白を入れるという基本線

Excelは罫線が多すぎると、色々と面倒だし見辛い。ということで、無くせる罫線(やセル結合)は無くしたほうが良い、ということで色々考えた。

線で区切る代わりに何らかの方法を用いて区切る場合、調整するのは余白である。ただ、項目と項目の間を適切に取ると、なぜ余白の部分が浮いて見えてくる。

目を凝らしてみて原因を考えた結果、テキストの行間が異常に狭いことが要因であると判明した。テキストの部分がぎっしりしているので、普通にWord感覚で区切りの余白を取ると浮きすぎるのである。

提示されている解決法が強引すぎて・・・

googleに聞いてみると、行の高さを調整して均等割り付けにしろというのが良くある解決法らしい。しかし、文章の長さは可変長である。その解決策を取ると、長さが違ったときに適切なレイアウトにならない可能性が捨てきれない。ということでその対策は取れない。

さらに聞いてみると、どうやらテキストボックスを使うという解決方法があるらしい。こうすると許せる行間になった。

ただし、なぜか段落書式が設定できない。たぶん、数式で文章を参照しているのだからだと思う。数式に段落という概念はないから。

決裁権者がExcelわかってないですからね

Excelは表「計算」ソフトであり、帳簿を作るソフトではない。そのため、それで体裁をとやかくいうのは間違っている。とやかくいうなら金を払ってそれなりの環境を買うべきというだけの話である。そして、実際はそのほうが安くつくのですが・・・

(余談)Excel以外でやっていいのなら・・・

TeXに流し込みたい気分である。しかし、サーバーサイド実行ではないので、クライアントに全部TeXインストールして、しかも素人に操作させるというのは無理ですからね・・・

Accesssがインストールされている環境ならAccessもあるんだろうけど。

話題の某大はセンター1Aで試験だけだと差がつかないかと・・・

某私大の政治と経済が合わさった学部で入試で数学が必修になったと話題になっている。

いくつか思うことを雑多に述べてみる

センター数1Aは差がつくか?

課されるとされている数学は1Aのみである。あのレベルの大学の数学で1Aってそんなに差がつかないような。ただの足切りとしてしか機能しない。それすら怪しい。

社会の問題作りたくないだけでは?

この学部、政経の出題もやめていたりしている。要は高校の内容を踏まえた入試問題を作りたくないんじゃないの?とうがった見方をしてしまうのは私だけだろうか?

理科基礎がコスパが良いのですが・・・

選択科目とやらも怪しい。このリストでいくと理科基礎が一番コスパが良いことになる。それで良いのか?

要は、理系をとりたいのか?理科基礎でなくても、専門理科1個で良い点数を叩き出す理系はいろいろといるだろうから。

あお、国際系の某学部は理科基礎を抜け道に使われるのを嫌ってか、理科基礎を科目から排除してきてますね。

余談・世間で文系数学は問題が簡単で特と言われているのが・・・

最近、どこやらで文系数学の問題が貼られて拡散されていた。こんな簡単だからお得だと。

しかし、得点調整の問題を忘れている。

  • 数学得意しか数学を使わない
  • 問題が簡単
  • いろんなデータが非公表

と考えると、本当に得になっているかは検証できない。ちょうど、公認会計士統計学あたりと同じ問題がある。

今回は、全員必須の形で課したことで、この手の得点調整による不安を抱えながら数学の問題を解くことは解消される。

数学が得意な人間にとって、これはありがたいことではないか。ただし、センター1Aではね・・・実力差が正しく反映されるのかどうかね・・・

余談・入学後に使うのは2Bですが・・・

まあ2B使うと、受験者数が壊滅しすぎたりセンター数学のとこで差がつきすぎたりするのが嫌だったんですかね。。。

セル結合を解除するのに必要なのは技術力ではなく交渉力というおかしさ

最近、手元でセル結合を多用しているシートで遊んでいる。

手書きを想定した帳簿をそのままExcelに落とし込んでいるため、やたらに罫線が多い。しかもセル結合多様である。

製作者の方の大人の努力は非常にわかる。いきなりラディカルにはいけないので、とりあえずできるだけ手書きを踏襲して電子化をしたのだと思う。苦労がしのばれる。

元の製作者の方はプログラミングの素養があるため、データと見た目の分離はちゃんとされないる。なので、手をいれるのはそこまでは難しくない。

交渉力の問題になるなら普通の人は避ける

罫線を取るには、決裁権者がそれで良いと言わなければならない。決裁権者は、前例であれば何も文句を言わないが、それ以外の場合は文句をいう確率がそれなりにある。そして、文句を言われたら、理論武装で反論をしなければならない。そうなると、無駄とわかっていても前と同じにしておこうということなる。

今回の場合、普通のパッケージを導入していればExcelシートそのものが不要な業務である。それをせずにExcelで節約しようといってるのだから、細かなことはつべこべいわずに受け入れていただけなければ困る。

プログラミング教育はいらない派だけど

データをあれこれするのはRを使っていることが多いので、セル結合をほどいて、また結合して罫線を引き直すとか、同一列の下に合計を入れるとかは非常にストレスがたまる。帳簿にしたければ、最後TeXやHTMLにでも吐き出せば住むだけの話だろと思ったり。

どこやらのつぶやきで、プログラミングをやらすことで、コンピュータの常識みたいなものが早く身につくのではないか、とあった。この意見に対しては「環境を整えずに授業を一斉でやる身からするとそんなことは面倒だからやめてくれ」という意見であった。

しかし、こういうとこで細かい要求を出す人々の存在を撲滅しようと思ったら、Rとかデータを触るプログラミングはさせたほうがましだと思い出した。現状のプログラミング教育の方向とは違うけど。

ただ、プログラミング教育派は子供のクリエイティブ性とか興味をとかなんとかな感じの教育プログラムを想定していることが多い。しかし、多数派に教えるべきはそこじゃないと思う。ほんと。

電話と手書きが素晴らしいと書いた教科書が一部でディスられてるらしい

一部で、情報の教科書に「電話や会って話すことが大事」だと書かれてたのがディスられてた。まあ、その教科書の記述自体は穏当な書き方なので問題はないと思う。インタラクティブにやりとりして解決しないとならない場合もある。

どういう場合にその記述が正しくて、どういう場合にその記述が間違ってるかをだらだらやるのが授業というものである(ので情報の授業準備は精神削られる。何言っても誰かから絶対批判されるから。)。教科書がどう書いて会ってもなんら問題はない。ただし、試験問題にしなければ。

だいたい、情報の教科書を、今までの「絶対に教科書丸暗記」レベルの真実だけが書かれているもの、と外部の人間はイメージしているからこんなあれこれがでるのだと思う。あれは相当に適当な部分「も」ある。その区別を授業で教えてれば何の問題もない。

あと、情報の教科書は会社間でまともかどうかの差が激しい。外野は他の教科の教科書のイメージで見て叩いてるけど。そして、だいたい高校の先生に「わかりやすい」と好まれるのはまともじゃないほう。(以下自粛)

以下、ちゃんと書くのがあれなのでだらだら。そのうちちゃんと書くかも。

電話を使うかどうかの授業をするときには

自分が授業をするときには(電話を使うべきかどうかは)「新しい考え方(というかそっちが私の常識)と古い考え方が真っ向から対立してる。相手がどっちかを空気を読んで考えた上で、良きに対処せよ。例をあげておくと学校は古い考え方でIT企業は新しい考え方。」とやってる。

「相手の時間を極力拘束しないことが礼儀」という考え方は、いちおう存在はするがなかなか理解されないという話もしたような気がする。

同期・非同期のコミュニケーション話と絡めて(というかそのとき使ってた教科書がその項目の近くにあったから)話したはず。

教科書が何書いてあっても試験にしなければ問題ない

教科書が何書いてあっても、授業では、まあこんなのは教科書がバカなことをいってますといってしまえば済むだけの話である。教科書は法律では「主たる教材」として使えとは書いてるが、一切の批判を加えるなとはどこにも書いてなかったはずである。

ただし、こういう客観的事実で言い切れないものを平気で試験問題として出すのがいるから困る。よって、私は「こういうのは絶対に試験に出さない。出す人間は物のわかってないあほだ。」といいきってた。

絶対的事実と相対的事実の区別

絶対に出さない、の話をする前段にだいたいこんな話をするようにしている。 (ちょっと人目を引く演技を入れて。身バレを防ぐためにそれは書かないが。)

情報の教科書には

  1. 「1+1=2」のような理系・客観的事実
  2. 親は大切にしましょう、みたいな道徳的なまあたぶんいいよね

が混在している。1と2を区別せずに試験をするあほもいるが私はそうしない。絶対に1.からしか出さない。そして、1.と2.を区別するのは高校生には無理だから、そこはどっちかはちゃんと言う、といって授業をするようにしている。

だいたい、同じ教科書に絶対的事実と相対的事実が混在してる状況で高校生にそれを区別させることが生産的とは思えない。また、区別できたとしても目の前の人間があほな可能性もあるから、教科書通り覚えないとならないとなってしまう可能性もある。そういう無駄な勉強をさせるという行動を防ぐためには、「絶対にここは試験にしない」と言うしかないと思っているし、ゆえに、そう振舞ってるとも言ってる。

教科書が書き換わる問題

情報の試験のややこしさは、こういった問題に加えて「パケットは定額である。正しいかどうか。」とか「携帯の電波はペースメーカーに悪影響がある。正しいかどうか。」といったタイプの問題をどう扱うかという問題もある。。。時代やシチュエーションで答えが一意に定まらなかったり変わる問題。

こういった話は、副教材のモラル本あたりだとこれをどっちかで言い切ってて、かつ試験に出してしまうあほな人もいる。授業を受ける側は、今までそういうあほな人もみてるだろうから、「まず私はあほではない(偉くもない)」ということを初回で宣言するようにしてる。

あと、病院の携帯は、教科書が「ペースメーカーで絶対だめ」と断言してあったが、そんな真逆なことは言い切りたくなかったので授業を工夫した。通達を調べさせる授業をして、あとは言いたいことはわかるよねと。組んでた先生が教科書絶対主義だったので、こんな常識を言うためにここまで徹底的に理論武装しないとならないのかとため息をついた記憶がある。

テキストベースで話し合うのは「話すこと・聞くこと」にカウントできるのか?

今時、話し合いは、グループウェアのアンケート機能やファイル共有機能を活用して行うものである。では、これを小学校国語でやった場合は何に分類されるのだろうか?「話すこと・聞くこと」にカウントできるのだろうか?ふと思った。

小学校国語の学習指導要領の指導事項には、「目的や進め方を確認し,司会などの役割を果たしながら話し合い,互いの意見の共通点や相違点に注目して、考えをまとめること。」となる。そして、グループや学級全体で話し合う活動が言語活動例であげられている。

司会と黒板という話し合い方が明らかに想定されている。しかし、現実社会の話し合いは、テキストベースの資料を一切用意しない話し合いは、むしろ非効率なものとして避けられている。

では、話し合いを現実に近づけるべく、グループウェアのアンケート機能やファイル共有機能の使用を話し合いのプロセスに組み込んだとしよ。このとき、このテキストベースで行なった作業は、この部分の時間は「書くこと」に按分しなければならないのだろうか?ふと思った疑問である。

なお、以下の解釈は完全に独断と偏見であり、完全な無保証である。

お上の資料

指導要領解説では「話すこと・聞くこと」の指導事項では(以下、私が便宜上、上から番号をつけた。実際は番号なし。)

  1. 話題の設計,情報の収集,内容の検討
  2. 構成の検討,考えの形成(話すこと)
  3. 表現,共有(話すこと)
  4. 構造と内容の把握,精査・解釈,考えの形成,共有(聞くこと)
  5. 話し合いの進め方の検討,考えの形成,共有(話し合うこと)

となっている。

1.を見ると、話し合いのための準備は話すこと・聞くことに入れて良いらしい。また、5.の考えの形成・共有は書くことの指導事項には入ってなさそうである。

「書くこと」の共有は「文章に対する感想や意見を伝え合い」と解説されている。したがって、あくまで作品を味わうという意味での共有であると解釈できる。全体的に、書くことの指導事項は一つのまとまったものを仕上げるという意味での指導事項が並んでる。ということは、いわゆるやりとりに属するものはどのような表現メディアを使っていても「話すこと・聞くこと」にカウントしても良さそうである。

また、3年・4年の指導事項の中に「互いの意見の共通点や相違点に着目して,考えをまとめること。」とある。これは書くことの項目にはない指導事項のはずである。となると、テキストを使おうと何使う嘔吐、この目的に向かっていることは「話すこと・聞くこと」でカウントしてみさそうである。

となると、テキストベースでリアルタイムで考えを共有することは「話すこと」「聞くこと」の拡張形であると考えてもよさそうである。

現実は中間どころに落ちますよね

テキストベースで話し合えば「書くこと・読むこと」になり、音声ベースのみで話し合えば「話すこと・聞くこと」にカウントしろ、となったら相当非合理的ですよね。だいたい、たいていの話し合いはテキストのやりとりと音声のやりとりの中間どころに落ちますよね。

項目ごとに時間数を分類してカウントすること自体がナンセンスなような気がしてきた。ただ、そうしないと読むことだけに偏った指導がされるから縛っている、というのはわかるんだけどね。。。