電話と手書きが素晴らしいと書いた教科書が一部でディスられてるらしい
一部で、情報の教科書に「電話や会って話すことが大事」だと書かれてたのがディスられてた。まあ、その教科書の記述自体は穏当な書き方なので問題はないと思う。インタラクティブにやりとりして解決しないとならない場合もある。
どういう場合にその記述が正しくて、どういう場合にその記述が間違ってるかをだらだらやるのが授業というものである(ので情報の授業準備は精神削られる。何言っても誰かから絶対批判されるから。)。教科書がどう書いて会ってもなんら問題はない。ただし、試験問題にしなければ。
だいたい、情報の教科書を、今までの「絶対に教科書丸暗記」レベルの真実だけが書かれているもの、と外部の人間はイメージしているからこんなあれこれがでるのだと思う。あれは相当に適当な部分「も」ある。その区別を授業で教えてれば何の問題もない。
あと、情報の教科書は会社間でまともかどうかの差が激しい。外野は他の教科の教科書のイメージで見て叩いてるけど。そして、だいたい高校の先生に「わかりやすい」と好まれるのはまともじゃないほう。(以下自粛)
以下、ちゃんと書くのがあれなのでだらだら。そのうちちゃんと書くかも。
電話を使うかどうかの授業をするときには
自分が授業をするときには(電話を使うべきかどうかは)「新しい考え方(というかそっちが私の常識)と古い考え方が真っ向から対立してる。相手がどっちかを空気を読んで考えた上で、良きに対処せよ。例をあげておくと学校は古い考え方でIT企業は新しい考え方。」とやってる。
「相手の時間を極力拘束しないことが礼儀」という考え方は、いちおう存在はするがなかなか理解されないという話もしたような気がする。
同期・非同期のコミュニケーション話と絡めて(というかそのとき使ってた教科書がその項目の近くにあったから)話したはず。
教科書が何書いてあっても試験にしなければ問題ない
教科書が何書いてあっても、授業では、まあこんなのは教科書がバカなことをいってますといってしまえば済むだけの話である。教科書は法律では「主たる教材」として使えとは書いてるが、一切の批判を加えるなとはどこにも書いてなかったはずである。
ただし、こういう客観的事実で言い切れないものを平気で試験問題として出すのがいるから困る。よって、私は「こういうのは絶対に試験に出さない。出す人間は物のわかってないあほだ。」といいきってた。
絶対的事実と相対的事実の区別
絶対に出さない、の話をする前段にだいたいこんな話をするようにしている。 (ちょっと人目を引く演技を入れて。身バレを防ぐためにそれは書かないが。)
情報の教科書には
- 「1+1=2」のような理系・客観的事実
- 親は大切にしましょう、みたいな道徳的なまあたぶんいいよね
が混在している。1と2を区別せずに試験をするあほもいるが私はそうしない。絶対に1.からしか出さない。そして、1.と2.を区別するのは高校生には無理だから、そこはどっちかはちゃんと言う、といって授業をするようにしている。
だいたい、同じ教科書に絶対的事実と相対的事実が混在してる状況で高校生にそれを区別させることが生産的とは思えない。また、区別できたとしても目の前の人間があほな可能性もあるから、教科書通り覚えないとならないとなってしまう可能性もある。そういう無駄な勉強をさせるという行動を防ぐためには、「絶対にここは試験にしない」と言うしかないと思っているし、ゆえに、そう振舞ってるとも言ってる。
教科書が書き換わる問題
情報の試験のややこしさは、こういった問題に加えて「パケットは定額である。正しいかどうか。」とか「携帯の電波はペースメーカーに悪影響がある。正しいかどうか。」といったタイプの問題をどう扱うかという問題もある。。。時代やシチュエーションで答えが一意に定まらなかったり変わる問題。
こういった話は、副教材のモラル本あたりだとこれをどっちかで言い切ってて、かつ試験に出してしまうあほな人もいる。授業を受ける側は、今までそういうあほな人もみてるだろうから、「まず私はあほではない(偉くもない)」ということを初回で宣言するようにしてる。
あと、病院の携帯は、教科書が「ペースメーカーで絶対だめ」と断言してあったが、そんな真逆なことは言い切りたくなかったので授業を工夫した。通達を調べさせる授業をして、あとは言いたいことはわかるよねと。組んでた先生が教科書絶対主義だったので、こんな常識を言うためにここまで徹底的に理論武装しないとならないのかとため息をついた記憶がある。