紙を資源ごみにするか燃えるゴミにするかは出し手の選択であるべき

ゴミ出しのルールを見てると、とにかくよほどのことがない紙はリサイクルだから資源ごみで出せとある。しかし、これを見るたびにいらっとする。まだ、紙を回収拒否されたことはないけど、もし回収拒否されたら下の趣旨のことをえんえんと電話でクレームいれてやろうとおもって生きている。

何を見られたくないかは人それぞれ

本棚を人に見られたくないという考えがある。わからない人には???な考え方である。

同様に、手書きのノートとかメモ用紙は見られたくない。人に書いたものを見られたくないから、計算式を鉛筆で書いて消すという人間も観測されているぐらいである。(私はそんな愚かなことはせずボールペンで全てやってるが)。

そんなこんなで、どこからどこまでが「他人に見られたくない情報か」は人によって違う。個人情報なんて、広く取ればいくら広くてもなんとかなる。

資源ごみと燃えるゴミのセキュリティに格差がありすぎる

一般的に、資源ごみの回収の日のセキュリティはざるである。のざらしのままの回収である。したがって、書いている内容はダダ漏れだし持っていかれる可能性もある。

生ゴミがこれに混ざっていれば、さすがにそんなことをする人はいない。そして、袋に入っている状態で回収される。

よって、相対的に燃えるゴミのほうが暗戦である。

重要なものだけを燃えるゴミとすると逆に狙われる

「重要なもののみ資源ごみ以外で」今度はそれはそれで狙われる。したがって、適度に普通の物と混ぜて捨てる方が安全である。要は、木の葉を隠すなら森に隠せというやつである。

よって、「シュレッダーや溶解まではする必要はないけど、見られたくない紙。」というのは、手でちぎっていろんなものと混ぜて燃えるゴミというのはオーソドックスな処理法である。

一般人はリテラシーがないので

「紙はとにかく資源ごみ」と言われたら素直に聞きそうである。その結果、何かが起こったらどうするんでしょうね?といつも思う。

私は「少しでも迷ったらとりあえずちぎっておけ(シュレッダーにかけておけ)」と判断ミスを減らすような考え方で生きている。これを否定されると、事故の連発になりそうで怖いんですよね。。。

時数をちゃんと確保せずにタイピングができるわけがない

4月から授業をしなくても良くなり(なので落ち着いて物を考えることができるようになり)気楽になった。

ただ、環境変化があり、引っ越しがあり、となるとドタバタして更新が滞ってしまった。

文字入力は習得させろとなっている

さて、最近、暇つぶしに指導要領の一部を読み込んでいる。

今回の指導要領の総則では言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力を身につけさせろとなっている。そして小学校ではプログラミングの条項の直前に、

各教科等の特質に応じて,次の学習活動を計画的に実施すること。
ア 児童がコンピュータで文字を入力すること

となっている。問題は、どこでやれと書いてないことである。総合では

コンピュータで文字を入力するなどの学習の基盤として必要となる情報手段の基本的な操作を習得し

などとある。

どこで時間があるの?

「各教科でやれ」「総合でやれ」と書いてあるが「どこのどういう単元でやれ」とは書いてない。

まあ、まじめな人が総合に組み込もうと考えたとしよう。しかし、その基礎となる「どれぐらい何をやらせれば子どもが文字が入力できるようになるのか」というデータは皆無である。この状況で、指導計画を立てて指導できるのは優秀な人だけである。平均的な人にはまず無理である。小学校の先生は専門家でもないし暇もない。

普通の人が授業をするとき、だいたいは教科書に忠実に授業をするはずである。教科書は何時間配当するかということはよしなにセッティングしてくれているので、時間数の割り振りなどを手探りでする必要などない。

しかし、総合にはそんなものはない。すなわち、キーボードの指導に関しては教科書も何もないという状況である。それでどうやって身につけさせるわけ?

結局は、意識高い系のところだけはどんどんコンピュータが使われるようになっていき、意識低い系のところは現状追認になるという当たり前の現象がおこりそうだと思っている。

そして、基本操作ができるという前提で、勝手に内容が高度化された技術と情報の授業をする人が頭を抱えることになるんだろうな。。。もっとも中学技術で扱うはずの「ネットワークを活用した双方向のプログラミング」など、教える(ことにいつかなるであろう)私もできないんですけどね。教える方もできないで良いのだろうか(良くない)。

数学教師の「コンピュータで簡単にできるから」って生徒にやらせてみて言ってる?

センター後継の数1Aの問題が、愛読している某blogで解説されていた。Tシャツの利益を最大化する問題である。(なので、問題そのものは適当にgoogleでみつけてください)

解説そのものは非常に良いものだった。計算はコンピュータがやってくれるのだから、モデル化そのものに取り組んでいくことが重要、とされていた。全く同感である。

それはさておき、数学の先生が「これぐらいコンピュータでできるから」ということは、普通レベルの高校の生徒には意外とできない。よって、「コンピュータでできるから」ということ数学の先生には、ぜひ一度目の前の生徒でコンピュータでやらせてみて、レポートを書いて欲しいといつも思っている。

以下、高級な授業力のない私が、もしExcelの授業でこの問題を扱うとか、モデル化とシミュレーションをやったふりをする題材としてこの問題を扱うとすると、これぐらいかな?ということを書いておく。

なお、花粉症でしんどいので、経済学っぽい人には読みにくい書き方を、特に断りを入れずに使って記事を書いていく。あくまで雰囲気を読み取ってほしいという記事である。

問題の概略

Tシャツの価格(以下ではこれをpとする)と予想需要量(以下ではこれをxとする)が与えられている。

  1. このデータを元にして需要関数を求める(需要関数は1次関数として良い)
  2. 1.で得られた需要関数を使って、収入を最大化する価格を求める。

(表が面倒なので箇条書きでデータを示す。pはTシャツの価格・xはアンケートより得たそのときの授業料。)

  • p=2000, x=50
  • p=1500, x=93
  • p=1000, x=154
  • p=500, x=200

なお、元の問題ではp=2000とp=500の値のみで需要関数の係数を決定している。また、変数をxとyで取っていることにも注意しておく。(価格はpriceのpでないと、自分が混乱するのでこうしている。)

とりあえず操作だけを情報の授業でやるなら

情報の授業で、とりあえず操作だけやってみました的な授業をするならこんな感じかなって手順。

  1. Excelでデータを入力して右クリックで回帰直線の式を出してプロット
  2. 適当な刻み幅で価格のリストを用意。
  3. 右のセルに回帰式を入れて予想数量を算出
  4. 価格 * 予想数量を隣の列に計算させる
  5. 目視・ソート・条件付き書式あたりのどれかで最大となる価格をみつけさせる

下に以上の手順を実行した画像を貼り付けた。

f:id:baruku07:20180405010246p:plain

色々とアラがある方法であることは承知している。しかし、初心者相手の場合、手計算風味を入れておいたほうが何をやっているかがわかりやすいと考えている。よって、まずはこれぐらいでまずはやらせてみる。

なお、N社の情報の科学の教科書にはこの程度の話はあることに注意しておく。

情報らしさを加えて授業するなら

問題文冒頭に書かれている需要調査のアンケートを作るところを具体的に作らせてみるというのが、ありえそうな展開である。あるいは、需要調査のアンケート方法の妥当性とかも適当に議論してみたいところである。

外野の声と戦わないとこの手の授業はできない(余談)

これぐらいの単純操作、生徒はさっとできると思うでしょ?普通。しかし、これができない。たったこれだけのことを授業でさせるだけでも大変。普通の高校では。

そして、コンピュータを使って授業をやらすと操作だけで手一杯になることが目に見えている。よって、外野から「ねらいがどうこう」「思考がどうこう」「活動あって学びなし」などと言われることは間違いない。よって、普通の人はこういうコンピュータを使う授業はやりたがらない。

私は「経験をしておくことそのものも大切」(がちなのは必要な人が大学でやればよろしい)なので、何言われてもやらすときめたらやらすけどね。。。

経済学系の人間としての雑感(余談)

この後の(3)として、業者に価格400で120枚Tシャツを発注したときの、利潤を最大にする価格を求めよという問題がある。

この(3)の問題、自分は中立的には解けない。経済学感覚が先に働いてしまう。要は業者に払ったコストはサンクコストなんだから最適化問題の考察要素から除外して考えて良い。よって、利潤最大化問題は元の収入最大化問題と基本的には等価。

よって、あとは120枚という制約がbindするかをみてやれば良い。しかし、こんなものは制約がbindしない問題を問題にするわけはない。よって、制約はbindしているに決まっている。そして、利潤関数は2次関数だからイレギュラーなこともおこってないはずだから、制約目一杯の120枚売る価格を求めれば良いに決まってるだろう、と考える。

もし数学の授業であったとしても、この問題を扱う以上は費用概念の説明はしたい。「定数項を引いているだけだからグラフがy軸方向に平行移動するだけだからxの挙動に影響がない」という言い方ではなく。

ただ、この(3)の問題は色々な意味で悪問だと思うな・・・・先に発注する数量決めておくって現実のシチュエーションではないでしょ?あくまで価格決めて需要量予想して、それでそれにあわせて発注する数量は決めるものじゃないですか。普通。

期待値を意思決定に活用するって数学教師が得意なこと?

お上は最近やたらと数学を日常で使う例をやれと行ってくる。例えば、パブコメ案の指導要領では、数Aの思考力・判断力・表現力の部分に「期待値を意思決定に活用したりすること」とある。

しかし、確率がからむ状況での意思決定は、数学教員になる人が受ける教育で自然と習うことなのだろうか?理工系の低回生の本を読んでいて、そういう感覚が身につくのだろうか?それは違うのでは?ということを実感するために、簡単な例をみてみる。

考察する状況

次の2つのお小遣を貰う方法について考える。

  • 方法1. 確率1で3000円をもらう。
  • 方法2. 確率1/2で10000円・確率1/2で0円ををらう。

考えられる問題例

方法1と2のいずれかを選択する権利があるものとする。どちらを選択すべきか?理由をつけて解答せよ。

想定解答例1

方法2.の期待値を計算すると5000円になる。これを方法1の3000円と比較すると2.の期待値の方が大きい。よって、2を選択すべき。

想定解答例2

確率1/2でお小遣いがもらえないという事態が発生するとものすごく悲しい。逆に、普通の人(解答者が想定している)は3000円もあれ十分に満足して生きていけるので5000円あってもうれしくない。よって、お小遣いがゼロになるリスクを無理にとる必要はないので方法1を選択すべき。

想定解答例2で出てくる概念は数学か?

まず、想定解答例2を見て、それなりに共感的に理解してあげられる数学教師はどれぐらいいるのだろうか。この書き方よりさらに適当に同じことが書かれているときに、生徒側の意を汲んで読んであげられるのだろうか。疑問である。

想定解答例2を正当化する教科書的な理屈はある。例えばこんな感じ。

  • 小遣いxから得られる満足度をu(x)とするとu(10000)とu(3000)はほとんど変わりない。
  • 流動性制約に直面していて、かつ、固定的支払いが発生する場合も、方法1が正当化される。例えば、小遣いをもらう方は携帯代の支払いといった固定支払いがある。もし預金0であり、確率1/2で0が出たらその時点で破産である。すなわち、u(0)は限りなく大きなマイナスになる。

さて、この屁理屈は数学なのだろうか?やっていることは、「期待値を日常の意思決定に生かしている」から派生している話である。よって、お上としては数学なのだろう。

しかし、この考え方は、経済学(やそれに類する意思決定の分野の)の教科書的な考え方である。となると、社会的な見方や考え方に分類されるはずなのだが、どうなのだろうか?

純粋無垢系の数学教員にふわっとした感覚はあるのか?

屁理屈を見てみると、もはやそこには数式は何もでてこない。この作業にラベルをつけるなら「屁理屈を正当化できるようなシナリオを作る」といったところだろうか。

こういう屁理屈を高校数学の教員がうまく語るというイメージはない。社会の人もそれをうまく語れるイメージはない。だいたい、こういった意思決定感覚を持っている人って学校現場にはあまりいかないんですよね・・・・それでも教えろというのか?

さらりと扱う問題なら解答例1のみの説明でも良いが

数学の時間だから想定解答1のみを扱えば良い、という意見もあろう。私も基本的にはその意見に賛成である。こういった日常っぽい問題を、単元の最後のおまけにさらっと扱うのであればそれで良い。その場合、「期待値の基準で判断せよ」と問題文に書いて、答えを一意に定めるようにしておくところであろう。

しかし、今度はこういった日常への応用を到達目標にしようというのである。そうなると、「期待値の基準で判断せよ」と書かずに、自分でどのような値を用いるかを適切に判断させる力まで込みで身につけさせるというのが求められている目標であるはずである。

どのような定式化で不確実性の下での意思決定を扱うべきか?について、多少踏み込んだ説明する場合、期待値だけで意思決定をして良い?で純粋無垢に話を終わらせて良いとは思えない。そんな世の中は不確実性は期待値だけで判断して良いという、リスクニュートラル人間を大量生産する教育が適切であるとは思えないのですが・・・

理系のハイパーな人は文系のことぐらいすぐわかるとはいえ(余談)

こういうリスクの話を理解するとき、自分の場合はミクロ経済学の感覚をベースに理解している。そして、それは高校数学とは別枠の教育を受けて得た感覚である。よって、これが高校数学教師のの専門性だとは思えないんですよね。

数学の良くわかっている人なら、文系の話は簡単にわかるから後から勉強すれば良いだけだ、という主張もある。しかし、仮にそれが正しいとしても、そういう優秀な人ないしリスクの話に興味が持てる人って、教員業界じゃなくて研究職や民間に行くとと考えるのが自然である。よって、教育業界にはあまりこういう話が好きな人は少なくなりそうである。そう考えるとますますリスクの話は学校で教えることではないと思うんですけどね。。。。

文系には相関係数は内積で理解できない

相関係数内積だから、高校数学で内積をちゃんと理解しておけば相関係数は3秒で理解できる、という主張を最近ときどき見聞きする。そして、それゆえに、相関係数は高校生に教えなくても良いという過激な主張も見聞きする。しかし、内積についてイメージを持てる人って何人いるの?そして、内積がイメージができない人には相関係数など教えても危険だから教えるなってこと?と思ったりもする。

個人的には、そんなことはまったくないと思っているし、そうだったら困る。内積なしでもこれぐらいは説明はできるだろ、という手持ちの例の一つを以下に書いてみる。

相関係数0の例

ある定義が与えられたとき、極端な値をとるのはどういうときか?ということを考えることはまともな数学の勉強法の一つであるはずである。以下の例は、学生のときに数学科の人に作って、と言われて作ったものなので、数学の人も普通に考えることという話で良いのだと思う。次の問題を考えてみる。

問題

 (-3,0), (1,a), (1,3),  (2,0)という2変量のデータがあったとき、相関係数を0にするaを求めよ。

以下、確率側の言葉とデータ側の言葉の整合性を取る記述が面倒なので、確率変数の問題として議論することにする。

内積

この問題を高校生に説明するときに、2つのベクトル(-3,1,1,2)と(0,a,3,0)のそれぞれのベクトルについて、平均を引いてから直交するなどとやる、と説明するのだろうか?まあ、そうやって計算すればできるんだろうけど。

条件付きの平均で考える

今、データを眺めると、x=-3x=2のときのyの値は、0である。相関係数0ということは、たぶん何らかの「関係ない」ということだろうと。関係ないは、言い換えるとxがyを説明できないということであろうと言い換えられそう。

もし、x=1のときのyの平均がx=-3x=2のときのyの平均値と一致すれば、xがyを説明しているとは言いにくい。そこでx=1のときの平均が0となるようにa=-3と設定すれば良いのでは?と考える。そう考えて相関係数を計算すると、確かに0になる。

これが偶然でないことは、相関係数の定義式をxごとに並べて書き下していけば納得できるはずである。

「xが与えられたときのyの平均がどんなxについても同じであれば、xはyを平均の意味では何も説明していない。その状態が相関係数0である。」というこの話の理解に、なぜベクトルが必要なのか理解に苦しむ。相関係数0の解釈として、直交とこの解釈を比較したとき、文系脳の私には今の解釈のほうがすとっと落ちる。

なお、この例は独立ではないが相関係数0の例になっているはずである。Prob(y=0|x=-3) =1であるが、Prob(y=0)=1/2だから、x=-3x=2のときはy=0になりやすいので独立ではない、となるはず。

なお、こういう話をしたかったりするので、確率変数までは高校で扱ってほしいな、と思う。

同じ理解で他の例を説明しておく

たとえば、y=x^{2} の3点を(-1,1), (0,0), (1,1)ととったものも相関係数0である。y=0とy=1のときの平均が0で同じだから。しかし、xはyを説明している。また、同じ教科書にある円状のデータが0になるというのも理解できる。

これらの例をこんな感じでいじっておいて、ということで相関係数0でもxとyに関係があることもあるので、2変量程度であれば図を描こう、で終わる。あるいは、xを層別化して層ごとにヒストグラム描いて条件付き分布をいくつか眺めておこうとか。条件付けを色々帰るのに表計算ソフトはだるいから、Rでも使えた方が良いよ、なんて言ってみることもあると思う。

なお、高校教科書ではK社の教科書は、相関係数が0になる例がいくつか書かれている。しかし、どうやってそれをひねりだしたかがわからない。さすがにそれでは数学の授業としてね。。。

内積に頼らない説明を考えれば良いだけでは?

相関係数の用語程度は世間に出てくる。よって、内積の概念なしで、そこそこに理解させておこう、という説明を考えれば良いのでは?と思う。そして、ここに書いた感じの内積抜きの説明を探す努力はしてるわけ?と言いたい。

なお、上の例を理解するにはシグマすら必要ないですね・・・

手元の本に行列使って絵を描きつつ共分散行列のイメージを説明している本があるが、それが理解できない対象には相関係数を教えてはならないと言われると???ですよ。

高校理科の人の硬さのせいで私は理系をやめたので・・・(余談)

(私の半径3m以内で観測した)高校理科教師にありがちなのが、自分が「これが本質」と決めたら、それ以外の理解はありえない、とする。そして、自分に合わない人は下々なので見下す・関わらない・無視・排除あたりの行動を取る、という傾向が見受けられる。相関係数はベクトルの内積なんだからそれで理解できる、との主張は、その典型例のように見える。

また、高校理科教師は内容の理解だけでなく、理解のプロセスにも干渉する傾向が見受けられる(主観)。私は、理科の授業でそれを嫌なほど感じた。よって、とてもついていけないと判断して理系を選ばなかった。物理は後から自分で少しだけ勉強して面白いと思ったし、生物も最近参考書をみると勉強して見ても良かったかな、と思い出した。しかし、理科の教師の強要する学び方での物理や生物は面白くないんですよね・・・

やや燃えがちな言い方をするのであれば「あなたたちのやってることは掛け算順序強制の小学校教師と変わりませんよ。本質的には。」と言いたいことは何度もある。

数学の人はもっと柔軟なイメージがあり、「まあ都合の良いように定義しよう」というおおらかさがある気がする。

数学の問題集を計算機に解かせるのは情報の授業としてありだと思うが・・・

大昔、未履修問題が発覚したとき「プリンタで印刷して入試問題を解かせているから情報だ」という強弁があったことがある。当然、認められず補習をするはめになっていたはずである。

最近、真面目な教材開発モードになったときにやろうと考えていることは、数Aの教科書の問題やセットの問題集を計算機で解かせる教材の開発である。

この問題って情報と数学のどちらで扱う?

問題

最近、愛読している某サイトで、某有名工業大学の場合の数の過去問を、全て書き出すことで解くという話を見た。問題の一部はこんな感じ。

3個のサイコロ(1から6の目を持つものとする)を振って、その積が10の倍数になるパターンの数を求めよ(順番は区別する。(1,1,2)と(1,2,1)は違うものとカウントするということ。)

(元の問題は確率)当然、落とせない問題である(大数でもそうされていたはず。)。

とりあえずRubyで1行ではあるが

教育的なコードを書く、という制約を外せばRubyで3秒で終了である。Rubyの1.9系で加わったメソッドは便利便利。

a = (1..6).to_a
a.repeated_permutation(3).select{|elem| (elem[0]*elem[1]*elem[2]) %10 ==0}.length

こうすると72通りが得られる。(JavaScriptPythonで本当はやるべきなんだろうな。。。一般人に教えるときは。)

まあ、selectの中身をinject使ってきれいにしてもよかったけど、3つぐらいならベタ書きでも良いでしょう。

どう授業に落とし込むかは色々ありますよね

私が自分の情報の授業でこの話を扱うなら、Excelとの比較で扱うというのが第一候補。Excelの手作業で216通りは作ろうと思えば作れる。

手作業で216通りを作れるといっても、頭を少しは使う必要がある。例えば、最初に1を36個作って2を36個作って、次に6個ずつを刻んでコピーしていって、などと要領よくやっていかないと泥沼にはまる。36通りの2個のサイコロなら行き当たりばったりでもどうにかなるが、216通りとなると少し要領が必要である。

1個目の1から6を36個ずつ作っておいて、あとは1から6のサイコロ2つのペアを6回コピーすれば終わり、という見通しなどを持てない人もけっこういそうので、遊びがいがある問題である。

教えてやらせるか、教えずにやらせて痛い目を見せるかは対象によってわけると思う。だいたい、私の場合は、コイン投げ4回の表裏のパターンを全部列挙せよ、でも怪しいのが多いのを相手にしていますからね・・・(2進数のときにこの話をすることが時々ある)

こんな感じでExcelでひとしきりやっておいて、その後で「大人はずるい」と言いながら上のコードをみせるかな。Rubyのコードをオンライン実行して見せる。

Rubyは身近に感じられる対象ではないので教育として良くない、と言われ、かつ時間があれば、VBAで列挙の部分をやらせてみるというのも考えたい。高々3重なので、VBAでforを3回書いて(a,b,c)のパターンを並べたセルをざーっと作らせてしまえば良い。これは、あっさりと書けそうである。

PowerShellで変態的にやるというのも考えたい(これはデフォルトでどのパソコンにも入っているので言い訳はできない)。

もう少し意識を高く持つなら

自分で問題文の条件を変えて、手と計算機で比較してみるということをさせるというのもありそうである。「手では解きにくいが計算機だと一瞬な問題を作れ」という指示を出して作らせるかな。それをやると、いかに数学の時間が手でとけるように出題者側が手加減しているかということがわかってくると思う。そして、これは手と計算機の比較なので立派な情報の授業である。

数学の問題は説明を半分省略できるので授業しやすい

この手の数学の問題の良いところは、問題の意味を実感できないとか理解できないということがないことである。数学の時間で問題がどういうものかは全て説明済みで、だいたい手で解くとこまでやっている。

したがって、手作業の部分をこっちが教える必要はない。コンピュータで解くところから始めることができる。これは大きい。2単位って忙しいんですよ・・・それでも無理やり情報用に人工的な問題を作って扱わないとならないのだろうか・・・

でも、理系っぽくない情報の人は「これは数学だ」とか言いだすんですよね。。きっと。あと、情報教育の意識高い系の人もそう言いそう。

ピュアな数学の授業でやるには合法だが

そんなことやってる暇ないですよね。数学の時間に計算機を活用してはならないとは書いてないので、数学の時間でやる分は完全合法なのは明らかなんですけどね。

結局、数学だろうが情報だろうが扱い人が扱いたい時に扱えば良いというのが私の個人的な考えではある。しかし、世間は許してくれないんだろうな・・・・

教科横断的なので総合でも合法?(余談)

まあそこまでやる人はいませんよね。。。普通。

教科横断という言葉を耳にするが・・・(余談)

最近、新指導要領がらみで「教科横断」をやたらに強調する人が多い。しかし、そもそもの教科の割り方が不適切なことが多く見られる。割ってはいけないものを割って横断というのも変な話である。

個人的には、政経と倫理で公民科とか、水と油を混ぜているような組み合わせにしか見えない。混ぜるなら、政経と地理と倫理の心理学っぽい部分で一括りにして(論理・データ・モデルの色合いが強い分野)と、残りを一括り(文献読解で考えていく)の2つに割るのが適切な割り方だといつも追っている。

情報も特にそんなとこがたくさんあるんですよね・・・

数Iのデータの分析では統計量の数学的な理解は求められていないような

数Bの統計推測実質必修化の批判のついでに、数Iのデータの分析を批判する言説をみかけた。さすがにこれはどうかと思った。

だいたい、データの分析をいわゆる「演繹的な数学」(といっても大学の数学科数学からすると高校数学は全部数学的でないんだろうけど)として扱う準備がない状況で、データの分析を数学で扱うのはおかしいという意見がある。それに関して思うことを書いておく。燃えないように注意して書いたつもりではあるが・・・

学習指導要領は理論的に統計量を扱えと書いていない

現行の指導要領は次のように書かれている。

四分位偏差,分散及び標準偏差などの意味について理解し,それらを用いてデータの傾向を把握し,活用すること。

パブコメ版の指導要領の、知識・技能の部分にはこう書かれている。

(ア)分散,標準偏差,散布図及び相関係数の意味や扱い方を理解すること。
(イ) コンピュータなどの情報機器を用いるなどして,データを表やグラフに整理したり,分散や標準偏差などの基本的な統計量を求めたりすること。

統計量の定義を正確に書き下せるようにしろとか、手計算で数学的に分散・標準偏差相関係数を理解しろとは一言も書いていない。だいたい、(データの傾向を把握し活用する前提としての)統計量の意味や扱い方を理解するのに、統計量の数学的な理解は絶対に必要というわけではない。ましてや、ベクトルの内積相関係数の関係などを理解することなども必要ない。

せいぜい次のように適当(厳密でないの意味)な定性的な話などをすれば良いだけである。(以下、説明は超適当。主観と余談もかなり入れている。)。

  • 分散・標準偏差は散らばりを表す統計量である。散らばりがないときは0。散らばっていれば散らばっているほど分散や標準偏差は大きくなる。
  • 分散・標準偏差の大小によって、極端なことの起こりやすさの推測ができることがある(この視点がないと、現実の面白い話ができないので。)。
  • 相関係数は1から-1の値を取る統計量である。データがだいたい右上がりの直線状になっていれば1、右下がりの直線状にそうでなければ-1。0の場合はあまり関係ない。
  • 1次関数に類する単調に増加や単調に減少っぽい関数以外では相関係数はあてにならないケースがありえる。とりあえず散布図は必ず描いて眺めとけ。
  • 相関は因果を意味しない。
  • 極端な分布になってなければ、だいたい分散・標準偏差相関係数で何かを判断しても大火傷はしない。
  • 世の中例外も色々あるから必ずヒストグラムや散布図は描けるなら描け(元データが手元にあるならということ)。重要な意思決定をするときには、統計量の大小だけでいい加減には判断するな。
  • 図を複数枚・複数回微妙に条件を変えながら描くのはExcelではだるい。データのからむ意思決定で生活変わる人はRなどの統計ツールを学べ。

K社の教科書は、指導要領の趣旨をかなりふまえた扱いになっていると個人的には思う。上の話も、K社の教科書に書かれていることにかなり影響されて書いている。なお、S社の教科書はその真逆であると思う。センターも、基本的には指導要領の趣旨に合っている出題であると感じている。

この程度の話を1年のときに5時間程度割いてするのに反対するって何なの?と思わないでもない。

変な扱いをする人は確かにいる

問題は、高校の中途半端な授業である。延々と手計算の練習や意味不明のパズルを(これは、前課程の数Bがベクトル・数列と選択になっていた関係で点数調整せざるをえなかった影響を受けている。)させたり、データの傾向と統計量の関係を理解してるか?と称して、(現実のデータ分析とは何も関係ない)暗号解読のような図の解読をさせる問題も定期試験ではみかける。(まあセンターもそうだと言えないこともないが。ただし、現実のセンターはデータはちゃんと面白い物を使っている。)

そういう問題をみると「現実社会で、そんなに細かい関係が必要なら、元データを使ってそれを調べるか、それに適した図に書き換えれば良いだけだよな。まあデータ触らない人はそういう感覚ないから仕方がないか。」という感想を抱く。

しかし、高校側の気持ちもわかる。教科書や問題集にあってインスタントに使える、という現実のデータの分析の例や演習問題があまりになさすぎるというのが現状としてあるのでね。。。

現状も用語知ってますか?程度の扱いですよね

これらを踏まえて、まあ、入試で出して小問1問程度、用語知ってますか?ぐらいの扱いでやれば良いのでは?と思う。そして、それは入試の現状に近いのではないかと思う。

センターは(わりと題材自体は)良い問題を出して、それなりに配点も取っている。しかし、あの問題に対策時間を割いている人もあまりいないと思う。センターの問題は差をつけるために不自然な扱いもあるが、結果として、そんなに差はついていないはずである(数年前の報告書でそう読んだような気する)。ということで、これも小問実質1問扱いのようなものである。何も問題ない。

この程度の用語ぐらいを大学進学者に知ってますか?と聞くのに何の問題があるのだろうか。勉強時間をそんなに割かしているわけでもないし。普通の歴史上の有名人物をちょっと聞いて見ました、程度の話ですよ。こんなもの。

これが数学か?には議論の余地があるが

数Iのデータの指導要領のこの扱いは、演繹的な数学か?と言われると微妙である。「数的リテラシー」とラベリングするのが適切であると思う。では、高校までで終わる人々にこの程度の話を誰も教えなくて良いんですか?特に「大学で教えるから問題ない」と行っている人々。

数IAの持つ政治的性質

数I・数Aというのは、大学進学ルート以外の人に強制できる最後の数学である。よって、ここでどう完結させるのか?という視点からもこの問題は考えられなければならない。これを意識してるのか、数Iは中学4年生的になっている。そうなると、簡単なデータリテラシーは数Iに入れざるをえないと思う。。

だいたい、少しおまけでデータの分析をやるぐらい(進学校で時間数を大量に強制させる枠組みであれば私もまずいと思いますよ)、なんでこんなにまで文句を言われなければならないのだろうか。わからない。

1年の数学はあとで学ぶための基礎的なことを、と理科の人が発言しているのも見た。それをしたいんだったら、大学進学数1と非大学進学数1の2つを作れば良いだけの話である。ただ、その路線は失敗したけどね。2つ前の課程で。数学基礎ってどうなりましたか?

数的リテラシーを誰が教えるの?と言われて数学以外と言える?

高校は大学進学の人だけのためのものではない。そういう人たちに対して、高校で誰が数的リテラシーを教えるのだろうか。単位数とスタッフの揃い方を考えると、数学の時間に数学教師が教えるしかないでしょう。良いか悪いかは別にして。だから文科も数学にねじこんできてるわけでしょ?数学でないと生徒にいろんな意味で強制できないので。情報の教師にそれができるとは思えない。

数学でデータの話を扱うのが嫌なら他に居場所を作る運動をおこしてください

個人的には、データ絡みのあれこれは、情報の教師が情報の時間に全て教えてしまうのが適切だとは思う。情報のIの最初の単元の社会っぽいことを公共に追い出して、情報デザインの単元を中学美術に追い出して、の時間は捻出できる。

そうして、情報をかっちりと理系っぽくしておいて、情報をセンターあたりで入試科目に入れて(そうしないと実効性が担保されないから文科は納得しないので)、情報教員もそれなりにまともなのをそれなりの人数採用させることにすれば数学から統計追い出せますよ?どうですか?

情報で全部データを見るとなると、個人的には気分が良くなる。今回の課程は「データに関して情報と数学で連携を深める」とかお上は言っているが、力関係の差をふまえるとこれは「数学に気を使う」になることが目に見えている。一般的に、他に気を使って何かをやるのは非効率である。それなら、情報で完結して全部自分の好きにやってしまえるほうがスッキリする。

いきなり全員必修の入試科目として情報をいれるのは大変だと思う。よって、まずは理科の選択科目として情報を入れてくれないかな、とか思っている(化学はいやだけど物理と情報で受験ができるなら理系にしたかったという個人の願望でもるが・・・・)。数学科とか情報学科は理科2科目は変だと思いますよ。特に化学。だったら化学の代わりに情報で良いと思うのですが。

あとは経済学部とかの社会科学の学部も国語(古典)の代わりに情報の試験で良いと思うんですけどね。モデル化なんて、社会科学系の学問でやることそのものですから、それをダイレクトに試験するで良いと思うのですが。

色々書いたが燃えないことを祈りたい・・・・