作文で生徒がキーボードを「選べる」だけ恵まれている

最近、一部で見かけた議論に、作文は手書きで行うべきかPCで行うべきかというのがある。

穏当な結論は「手書きとキーボードのどちらが良いかは書き手に使い分けさせれば良い」になる。このような結論を出される方は平和な生徒しか見ていないのだなと思ってしまう。

しかし、それが通用しない恐ろしいレベルの場もある。「手書きで長文を書かすと遅くて読めない字が生産される。」「キーボード入力もできない」。これらをみていると、文字を記述できるというのも一つな立派な能力なのであると痛感させられる。

それなりの高校の生徒の場合、学校教育において手書きで文字を記述する力が訓練されていて、かつ、それなりに身につけられている。そうでない生徒は入試で選別している。文章を書かせる筆記試験というのは、暗黙に手書きの文字の記述能力も試験しているのである。その選別に耐えた生徒のみを集めた状況では、手書きを選ぶことができる。

これに対して、キーボードは誰もどこでも訓練させていない(建前は学校でやることになっているが)し、入試で選別される能力の対象ともなっていない。よって、キーボードで書ける能力がない。この状況で「自由に選ぶ」ことなどできるのだろうか?

キーボード入力をわざとできないような状態にしておいて、自由に選ばせて、「誰も選ばないのだから手書きのままで何ら問題はない」とするのは、PCに対する嫌がらせとしか思えない。

では、仮に「手書きを学校で訓練するのと同様に、キーボードが選択できる余地になる程度の訓練機会を与えよう」ということになったとしよう。しかし、これも「誰が」「どの時間で」訓練するのかということになる。だいたい、作文の議論をするのは多くは国語の教師と英語の教師である。そういった人々は、自分の教科の専門性とは関係ないので自分がやることではないと逃げる。

情報以外の先生の多くの先生の感覚は、情報に丸投げしておけば良いと思っている。確かに、情報A時代なら、情報でやればということでもよかった(それでも問題はあるが)かもしれない。しかし、高校情報では情報Aから社会と情報に移行したときに、単純操作には責任を一切持たなくて良いという風潮ができた。「単純操作は情報の専門の人が教えるべきことではない」という感覚である。となると、生徒にキーボードを打てるようにするのはどこの誰の専門?本来教えるべきとされている小学校?

さらに問題なのは、どの程度の時間をかければ手書きと同等の速度でキーボード入力ができるようになるのかという定量的なデータが不足していることである。5時間程度の訓練でそれが可能であれば、やらせれば済むということになる。しかし、50時間かかるのであればそれなりに制度そのものをやりくりしないといけない。また、キーボードの初期学習は単純暗記なので、これを50分・週2時間という枠組みで扱う(情報の授業)が適切なのかも議論が必要である。

キーボードの文字入力の習得について良く言われているのは「使っているうちに慣れる」である。半径3m以内の観測では、このアプローチで状況の悪化を引き起こしているケースをしばしばみかける。

最近、業務に関連してキーボードの習熟時間や入力速度分布の日本語で書かれたあれこれを収集した。しかし、私の情報収集能力では習熟に関する十分な量の定量的データを得ることはできなかった。特に習熟時間については、習熟時間の「平均値」以外があまりないような気がする。この手のデータは「最小値」「四分位数」がもっとも欲しいデータである。授業をするほうとしては、一斉授業は遅い生徒に引きずられるので、遅い生徒にどのぐらい時間をかければ手当ができるのかというデータが欲しいのである。

下位のキーボード入力の習熟に目を向けていくようになると、世間でいうタッチタイピング習得について書かれていること(習得までの時間の見積もりを含めて)は理想にしか見えなくなる。最初は、こっちの指導法の問題かと思って色々考えていたが、最近は「ネットに書かれている情報はある一定以上の学力の人向け」と割り切ることにしている。

ここ2年で、キーボード入力について様々なつまづきのケースが私の中に蓄積されてきた。対処もいくつか確立されてきた。ただ、症状の診断や対処の効果が出るまでの時間などが定量化されていないため、適切診断と対処がみつかるまでの時間ロスや、その対処で間に合うのか?という不安といつも戦っている。

仕方がないので、最近は自分でデータを取って色々考えられるような準備をしているところである。データの取れる環境にい続けられるかわからない不安定な身分ではあるが。