資格試験対策をしながらミクロ経済学に毒されていることに気付いた

LinuCの101を終えて102に入ったので,再び目次と重要度の暗記作業から入ってる。

頭の中で重要度と項目を操作しながら,重要度/内容を考察してると,時刻管理のとこはで割合わないなと頭を抱える。重要度2に対して暗記項目が多すぎるので,何を減らせばとりあえず2相当の暗記量まで減らせないかな?とあれこれ考えてた。で,ふと気づいた。この思考って,重要度1に対する労力をそろえようとしてるってことだから,言い換えると(暗記量を費用と見たときの)加重限界生産性を均等にしているということではないかと。

また,どこに時間を投入するとすぐに点数化するだろうか?という当たり前のことも,明らかに限界代替率的な考え方であることも同時に気付く。

こういう考え方,いつも一般人の常識として扱って良いのか経済学部生固有の常識として扱って良いのか悩む。

自分の場合は,こういう考え方は高校ぐらいからは空気や水のように当たり前に操作していたので,常識だとしたくなる。ただ,自分がこの考え方についてどういう経緯をたどったかということを考えて自制することにしている。自分のこの考え方についての過程は,高校までは空気や水のごとく当たり前として操作していて,ミクロ経済学でそれを一度言語化・理論として学んで精度の高い形で意識化できるようになり,それが時を経て無意識の中に入った,という解釈をしているので。