テキストベースで話し合うのは「話すこと・聞くこと」にカウントできるのか?

今時、話し合いは、グループウェアのアンケート機能やファイル共有機能を活用して行うものである。では、これを小学校国語でやった場合は何に分類されるのだろうか?「話すこと・聞くこと」にカウントできるのだろうか?ふと思った。

小学校国語の学習指導要領の指導事項には、「目的や進め方を確認し,司会などの役割を果たしながら話し合い,互いの意見の共通点や相違点に注目して、考えをまとめること。」となる。そして、グループや学級全体で話し合う活動が言語活動例であげられている。

司会と黒板という話し合い方が明らかに想定されている。しかし、現実社会の話し合いは、テキストベースの資料を一切用意しない話し合いは、むしろ非効率なものとして避けられている。

では、話し合いを現実に近づけるべく、グループウェアのアンケート機能やファイル共有機能の使用を話し合いのプロセスに組み込んだとしよ。このとき、このテキストベースで行なった作業は、この部分の時間は「書くこと」に按分しなければならないのだろうか?ふと思った疑問である。

なお、以下の解釈は完全に独断と偏見であり、完全な無保証である。

お上の資料

指導要領解説では「話すこと・聞くこと」の指導事項では(以下、私が便宜上、上から番号をつけた。実際は番号なし。)

  1. 話題の設計,情報の収集,内容の検討
  2. 構成の検討,考えの形成(話すこと)
  3. 表現,共有(話すこと)
  4. 構造と内容の把握,精査・解釈,考えの形成,共有(聞くこと)
  5. 話し合いの進め方の検討,考えの形成,共有(話し合うこと)

となっている。

1.を見ると、話し合いのための準備は話すこと・聞くことに入れて良いらしい。また、5.の考えの形成・共有は書くことの指導事項には入ってなさそうである。

「書くこと」の共有は「文章に対する感想や意見を伝え合い」と解説されている。したがって、あくまで作品を味わうという意味での共有であると解釈できる。全体的に、書くことの指導事項は一つのまとまったものを仕上げるという意味での指導事項が並んでる。ということは、いわゆるやりとりに属するものはどのような表現メディアを使っていても「話すこと・聞くこと」にカウントしても良さそうである。

また、3年・4年の指導事項の中に「互いの意見の共通点や相違点に着目して,考えをまとめること。」とある。これは書くことの項目にはない指導事項のはずである。となると、テキストを使おうと何使う嘔吐、この目的に向かっていることは「話すこと・聞くこと」でカウントしてみさそうである。

となると、テキストベースでリアルタイムで考えを共有することは「話すこと」「聞くこと」の拡張形であると考えてもよさそうである。

現実は中間どころに落ちますよね

テキストベースで話し合えば「書くこと・読むこと」になり、音声ベースのみで話し合えば「話すこと・聞くこと」にカウントしろ、となったら相当非合理的ですよね。だいたい、たいていの話し合いはテキストのやりとりと音声のやりとりの中間どころに落ちますよね。

項目ごとに時間数を分類してカウントすること自体がナンセンスなような気がしてきた。ただ、そうしないと読むことだけに偏った指導がされるから縛っている、というのはわかるんだけどね。。。

探求で九九や漢字を身につけさせろといったらぶっ叩かれるのにね・・・

検索エンジンにひっかかると嫌なので、本文は引用せずに思うことを書くことにする。

小学校の総合に出てくる情報機器習得条項

小学校の総合では、文字の入力などの情報手段の基本が身につけられるように配慮することとなっている。

これを字面通り適用するとすれば、まあ、総合の時間の中で操作をやる時間を先に取ってから(特に慣れではどうにもならない人間が多数出てくる文字入力)授業を進めていこうね、と穏当な話になる。

漢字や九九を探求で身につけろといったら絶対大きく批判されるよね

しかし、お上の解説(これは法的拘束力は無い)は、探求的な学習の過程における実際の場面を通して情報手段の基本的な操作を身につけろと言っている。

これ絶対無理だろと個人的には思う。情報手段の話なのでで誰も文句は言ってないだけだとも思う。もし同じことを九九や漢字の学習について、「暗唱や反復の書き取りの手法は一切使わずに、探求的な活動のみでこれらの技能を身につけさせろ。」言ったらどうなるか?たぶんものすごいバッシングである。

文字入力は、漢字や九九と同じトレーニングが必要な技能である。したがって、その習得段階では単純反復のアプローチが絶対に必要になる。誰も真面目に文字入力を身につけさせようとしてないから、そんな当たり前の意見も出てこない。

総則では相変わらず反復はOKですけど

今回、指導要領の様々なシーンで、探求っぽいその学習活動を通してでは絶対に身につかないし授業破綻だろ、という部分が随所随所に出てくる。反復とかやったらだめなの?とかも思う。

しかし、総則を見ると、今まで通り必要であれば繰り返し学習などの工夫はやってやろしいと書いている。どっちなのかはっきりしろと言いたい。

技能の活用シーンを用意することは当然必要ですが

だいたい、探求活動を通して反復技能が身につくというのは誰かが科学的に実験して証明したのかと言いたい。仮に結果があるとしても、全国津々浦々で様々な教員や様々な生徒や様々な学校で適用できるほどのロバストな結論ではないでしょう。

まあ、全てを探求活動を通してと言いたくなる気持ちもわからないではない。いろんなことについて、訓練だけで終わらせることがあまりに多いのが現状だから。文字入力の訓練させておいて、日頃のワークシートが手書きではそれは訓練させる意味はない。だから、訓練を日常につなげることは必要である。そこはさすがに否定しない。

ただ、訓練だけで終わらせてしまう誘引もきっちり除去してから探求をやれと大声で言ってほしい。忙しいとか1対40とか、それなりに生徒押さえつけて統制とって授業しないといけないとか、そういう種々の制約が教える側を反復重視に向かわせているのだから。

自分に関しては、文字入力の下側はある一定以上にしておかないと、1対40の環境で情報教室で面白い応用の授業はできないという認識である。文字入力が怪しい生徒が一定数を超える、どんな面白い授業をやってもその生徒のフォローで破綻する。よって、面白い授業の下準備として、まずは文字入力の訓練、特に下位層の訓練に力を入れているつもり。それ以外の理由もいろいろあるけど。

Excelで単にグラフを描く授業ってどこに配当するの?

新課程に向けて色々と趣味で考察している。

以下、根拠・ソースは全て略で、現時点での私の思い込みで書いているので注意。

新課程ではコンピュータの単純操作はノーマルな各教科に振り分け

一般人用語でいうと、Word, Excel, PowerPointは技術や情報が引き受けるのは一切やめるということになる。各教科が教科内容をやる中で活用し、かつ、操作方法を習得されるということになっている。特に、小学校段階で各教科で使うレベルは習得されることになっている。

技術・情報ではいわゆる情報系学部のイントロをやるということになっている。

単純にExcel操作してグラフ描く活動はどこにもない?

文字入力は総合でやれということになっている。文字入力ができれば、Word系・PowerPoint系はまあ使ってるうちになれる。そこは問題ない。

問題になるのはExcelである。Excelはデータを触る中でやっていくことになる。

現状、表にまとめることが3年・棒グラフが4年・割合が5年なのでそれに関連したグラフはそこで扱われる。今度は、中学から代表値が降りてくるのでもう1学年降りて割合が4年ということになる(大丈夫?)。

仮に算数でその活動をするとしよう(総則で「適切に各教科で情報活用はやれということなので適切でしょう」)。現行の学年でいくと、単純に棒グラフを描く活動は4年でできることになる。ただ、4年生にExcelのメニューが読めるのか?と言われると???である。もう1学年落ちると??

割合はただでさええぐい単元である。ここは、算数の時間としては手でグラフを描かして割合を実感させる必然性がある。したがって、あまり表計算には時間が割けない。となると、算数以外で表計算をやる時間をかき集めるしかないか?

4年の国語は地味にえぐい

ここで4年のある会社の国語を見て見ると、アンケートを設計してグラフにまとめてポスターにまとめるという単元が発見された。そして、そしてそれを手でやろうというのである。

高校の社会と情報の教科書と実質的には(レベルは違うが)同じことをやっているのである。

国語はまあ失敗したときのダメージも少ない教科なので、仮にここで表計算を扱うことにしよう。しかし、配当時間が約10時間である。これでどうやって間に合わせろと?

使えるグラフが制約される

この単元をやるときには、割合を使えないので折れ線グラフと棒グラフに限定される。しかも、まだ平均値を習っていないので平均値も考察に使えない。

となると、考察のバリエーションは頻度順に並べるということしかできない。それに合わせるように子どもに質問作らせないとならない。

小学校の先生ってそんな高度なこと考えて商売しないといけないんだ・・・すごい稼業だ。

これgoogle formとかでやろうって発想はないわけ?

こんなの手で集計することに何の国語的意味があるのだろうか。それこそ何かテクノロジー使わせろよと思う。指導要領解説にも「図表を作って報告させるばあいは、作表や作図は国語のメインじゃないから、そこに大して手間かけるな」とある。だったら、コンピュータ楽チンさせるのが普通じゃない?

コンピュータの操作について横に串刺ししたものを作らないと・・・

総則では、計画的に情報活用能力を身につけさせるとある。特に小学校は操作も含めてである。

表計算をシステマティックに扱う単元がない以上、各教科の表計算っぽいところを串刺しにして、とにかく使えるときには表計算ソフト使わせておかないとどうしようもない。社会・理科も串刺しにしてとにかく経験を積ませるしかないところだと思う。

お役所はいらんとこは単元表作らせるくせに(総合との関連とか)、こういう肝心なとこは作らない。ということで自作するしかないな。。。

プログラミングよりこっちのほうがよっぽど問題だと考えてる今日この頃である。プログラミングはキットがあるけど、表計算はキットがないからね・・・

紙を資源ごみにするか燃えるゴミにするかは出し手の選択であるべき

ゴミ出しのルールを見てると、とにかくよほどのことがない紙はリサイクルだから資源ごみで出せとある。しかし、これを見るたびにいらっとする。まだ、紙を回収拒否されたことはないけど、もし回収拒否されたら下の趣旨のことをえんえんと電話でクレームいれてやろうとおもって生きている。

何を見られたくないかは人それぞれ

本棚を人に見られたくないという考えがある。わからない人には???な考え方である。

同様に、手書きのノートとかメモ用紙は見られたくない。人に書いたものを見られたくないから、計算式を鉛筆で書いて消すという人間も観測されているぐらいである。(私はそんな愚かなことはせずボールペンで全てやってるが)。

そんなこんなで、どこからどこまでが「他人に見られたくない情報か」は人によって違う。個人情報なんて、広く取ればいくら広くてもなんとかなる。

資源ごみと燃えるゴミのセキュリティに格差がありすぎる

一般的に、資源ごみの回収の日のセキュリティはざるである。のざらしのままの回収である。したがって、書いている内容はダダ漏れだし持っていかれる可能性もある。

生ゴミがこれに混ざっていれば、さすがにそんなことをする人はいない。そして、袋に入っている状態で回収される。

よって、相対的に燃えるゴミのほうが暗戦である。

重要なものだけを燃えるゴミとすると逆に狙われる

「重要なもののみ資源ごみ以外で」今度はそれはそれで狙われる。したがって、適度に普通の物と混ぜて捨てる方が安全である。要は、木の葉を隠すなら森に隠せというやつである。

よって、「シュレッダーや溶解まではする必要はないけど、見られたくない紙。」というのは、手でちぎっていろんなものと混ぜて燃えるゴミというのはオーソドックスな処理法である。

一般人はリテラシーがないので

「紙はとにかく資源ごみ」と言われたら素直に聞きそうである。その結果、何かが起こったらどうするんでしょうね?といつも思う。

私は「少しでも迷ったらとりあえずちぎっておけ(シュレッダーにかけておけ)」と判断ミスを減らすような考え方で生きている。これを否定されると、事故の連発になりそうで怖いんですよね。。。

時数をちゃんと確保せずにタイピングができるわけがない

4月から授業をしなくても良くなり(なので落ち着いて物を考えることができるようになり)気楽になった。

ただ、環境変化があり、引っ越しがあり、となるとドタバタして更新が滞ってしまった。

文字入力は習得させろとなっている

さて、最近、暇つぶしに指導要領の一部を読み込んでいる。

今回の指導要領の総則では言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力を身につけさせろとなっている。そして小学校ではプログラミングの条項の直前に、

各教科等の特質に応じて,次の学習活動を計画的に実施すること。
ア 児童がコンピュータで文字を入力すること

となっている。問題は、どこでやれと書いてないことである。総合では

コンピュータで文字を入力するなどの学習の基盤として必要となる情報手段の基本的な操作を習得し

などとある。

どこで時間があるの?

「各教科でやれ」「総合でやれ」と書いてあるが「どこのどういう単元でやれ」とは書いてない。

まあ、まじめな人が総合に組み込もうと考えたとしよう。しかし、その基礎となる「どれぐらい何をやらせれば子どもが文字が入力できるようになるのか」というデータは皆無である。この状況で、指導計画を立てて指導できるのは優秀な人だけである。平均的な人にはまず無理である。小学校の先生は専門家でもないし暇もない。

普通の人が授業をするとき、だいたいは教科書に忠実に授業をするはずである。教科書は何時間配当するかということはよしなにセッティングしてくれているので、時間数の割り振りなどを手探りでする必要などない。

しかし、総合にはそんなものはない。すなわち、キーボードの指導に関しては教科書も何もないという状況である。それでどうやって身につけさせるわけ?

結局は、意識高い系のところだけはどんどんコンピュータが使われるようになっていき、意識低い系のところは現状追認になるという当たり前の現象がおこりそうだと思っている。

そして、基本操作ができるという前提で、勝手に内容が高度化された技術と情報の授業をする人が頭を抱えることになるんだろうな。。。もっとも中学技術で扱うはずの「ネットワークを活用した双方向のプログラミング」など、教える(ことにいつかなるであろう)私もできないんですけどね。教える方もできないで良いのだろうか(良くない)。

数学教師の「コンピュータで簡単にできるから」って生徒にやらせてみて言ってる?

センター後継の数1Aの問題が、愛読している某blogで解説されていた。Tシャツの利益を最大化する問題である。(なので、問題そのものは適当にgoogleでみつけてください)

解説そのものは非常に良いものだった。計算はコンピュータがやってくれるのだから、モデル化そのものに取り組んでいくことが重要、とされていた。全く同感である。

それはさておき、数学の先生が「これぐらいコンピュータでできるから」ということは、普通レベルの高校の生徒には意外とできない。よって、「コンピュータでできるから」ということ数学の先生には、ぜひ一度目の前の生徒でコンピュータでやらせてみて、レポートを書いて欲しいといつも思っている。

以下、高級な授業力のない私が、もしExcelの授業でこの問題を扱うとか、モデル化とシミュレーションをやったふりをする題材としてこの問題を扱うとすると、これぐらいかな?ということを書いておく。

なお、花粉症でしんどいので、経済学っぽい人には読みにくい書き方を、特に断りを入れずに使って記事を書いていく。あくまで雰囲気を読み取ってほしいという記事である。

問題の概略

Tシャツの価格(以下ではこれをpとする)と予想需要量(以下ではこれをxとする)が与えられている。

  1. このデータを元にして需要関数を求める(需要関数は1次関数として良い)
  2. 1.で得られた需要関数を使って、収入を最大化する価格を求める。

(表が面倒なので箇条書きでデータを示す。pはTシャツの価格・xはアンケートより得たそのときの授業料。)

  • p=2000, x=50
  • p=1500, x=93
  • p=1000, x=154
  • p=500, x=200

なお、元の問題ではp=2000とp=500の値のみで需要関数の係数を決定している。また、変数をxとyで取っていることにも注意しておく。(価格はpriceのpでないと、自分が混乱するのでこうしている。)

とりあえず操作だけを情報の授業でやるなら

情報の授業で、とりあえず操作だけやってみました的な授業をするならこんな感じかなって手順。

  1. Excelでデータを入力して右クリックで回帰直線の式を出してプロット
  2. 適当な刻み幅で価格のリストを用意。
  3. 右のセルに回帰式を入れて予想数量を算出
  4. 価格 * 予想数量を隣の列に計算させる
  5. 目視・ソート・条件付き書式あたりのどれかで最大となる価格をみつけさせる

下に以上の手順を実行した画像を貼り付けた。

f:id:baruku07:20180405010246p:plain

色々とアラがある方法であることは承知している。しかし、初心者相手の場合、手計算風味を入れておいたほうが何をやっているかがわかりやすいと考えている。よって、まずはこれぐらいでまずはやらせてみる。

なお、N社の情報の科学の教科書にはこの程度の話はあることに注意しておく。

情報らしさを加えて授業するなら

問題文冒頭に書かれている需要調査のアンケートを作るところを具体的に作らせてみるというのが、ありえそうな展開である。あるいは、需要調査のアンケート方法の妥当性とかも適当に議論してみたいところである。

外野の声と戦わないとこの手の授業はできない(余談)

これぐらいの単純操作、生徒はさっとできると思うでしょ?普通。しかし、これができない。たったこれだけのことを授業でさせるだけでも大変。普通の高校では。

そして、コンピュータを使って授業をやらすと操作だけで手一杯になることが目に見えている。よって、外野から「ねらいがどうこう」「思考がどうこう」「活動あって学びなし」などと言われることは間違いない。よって、普通の人はこういうコンピュータを使う授業はやりたがらない。

私は「経験をしておくことそのものも大切」(がちなのは必要な人が大学でやればよろしい)なので、何言われてもやらすときめたらやらすけどね。。。

経済学系の人間としての雑感(余談)

この後の(3)として、業者に価格400で120枚Tシャツを発注したときの、利潤を最大にする価格を求めよという問題がある。

この(3)の問題、自分は中立的には解けない。経済学感覚が先に働いてしまう。要は業者に払ったコストはサンクコストなんだから最適化問題の考察要素から除外して考えて良い。よって、利潤最大化問題は元の収入最大化問題と基本的には等価。

よって、あとは120枚という制約がbindするかをみてやれば良い。しかし、こんなものは制約がbindしない問題を問題にするわけはない。よって、制約はbindしているに決まっている。そして、利潤関数は2次関数だからイレギュラーなこともおこってないはずだから、制約目一杯の120枚売る価格を求めれば良いに決まってるだろう、と考える。

もし数学の授業であったとしても、この問題を扱う以上は費用概念の説明はしたい。「定数項を引いているだけだからグラフがy軸方向に平行移動するだけだからxの挙動に影響がない」という言い方ではなく。

ただ、この(3)の問題は色々な意味で悪問だと思うな・・・・先に発注する数量決めておくって現実のシチュエーションではないでしょ?あくまで価格決めて需要量予想して、それでそれにあわせて発注する数量は決めるものじゃないですか。普通。

期待値を意思決定に活用するって数学教師が得意なこと?

お上は最近やたらと数学を日常で使う例をやれと行ってくる。例えば、パブコメ案の指導要領では、数Aの思考力・判断力・表現力の部分に「期待値を意思決定に活用したりすること」とある。

しかし、確率がからむ状況での意思決定は、数学教員になる人が受ける教育で自然と習うことなのだろうか?理工系の低回生の本を読んでいて、そういう感覚が身につくのだろうか?それは違うのでは?ということを実感するために、簡単な例をみてみる。

考察する状況

次の2つのお小遣を貰う方法について考える。

  • 方法1. 確率1で3000円をもらう。
  • 方法2. 確率1/2で10000円・確率1/2で0円ををらう。

考えられる問題例

方法1と2のいずれかを選択する権利があるものとする。どちらを選択すべきか?理由をつけて解答せよ。

想定解答例1

方法2.の期待値を計算すると5000円になる。これを方法1の3000円と比較すると2.の期待値の方が大きい。よって、2を選択すべき。

想定解答例2

確率1/2でお小遣いがもらえないという事態が発生するとものすごく悲しい。逆に、普通の人(解答者が想定している)は3000円もあれ十分に満足して生きていけるので5000円あってもうれしくない。よって、お小遣いがゼロになるリスクを無理にとる必要はないので方法1を選択すべき。

想定解答例2で出てくる概念は数学か?

まず、想定解答例2を見て、それなりに共感的に理解してあげられる数学教師はどれぐらいいるのだろうか。この書き方よりさらに適当に同じことが書かれているときに、生徒側の意を汲んで読んであげられるのだろうか。疑問である。

想定解答例2を正当化する教科書的な理屈はある。例えばこんな感じ。

  • 小遣いxから得られる満足度をu(x)とするとu(10000)とu(3000)はほとんど変わりない。
  • 流動性制約に直面していて、かつ、固定的支払いが発生する場合も、方法1が正当化される。例えば、小遣いをもらう方は携帯代の支払いといった固定支払いがある。もし預金0であり、確率1/2で0が出たらその時点で破産である。すなわち、u(0)は限りなく大きなマイナスになる。

さて、この屁理屈は数学なのだろうか?やっていることは、「期待値を日常の意思決定に生かしている」から派生している話である。よって、お上としては数学なのだろう。

しかし、この考え方は、経済学(やそれに類する意思決定の分野の)の教科書的な考え方である。となると、社会的な見方や考え方に分類されるはずなのだが、どうなのだろうか?

純粋無垢系の数学教員にふわっとした感覚はあるのか?

屁理屈を見てみると、もはやそこには数式は何もでてこない。この作業にラベルをつけるなら「屁理屈を正当化できるようなシナリオを作る」といったところだろうか。

こういう屁理屈を高校数学の教員がうまく語るというイメージはない。社会の人もそれをうまく語れるイメージはない。だいたい、こういった意思決定感覚を持っている人って学校現場にはあまりいかないんですよね・・・・それでも教えろというのか?

さらりと扱う問題なら解答例1のみの説明でも良いが

数学の時間だから想定解答1のみを扱えば良い、という意見もあろう。私も基本的にはその意見に賛成である。こういった日常っぽい問題を、単元の最後のおまけにさらっと扱うのであればそれで良い。その場合、「期待値の基準で判断せよ」と問題文に書いて、答えを一意に定めるようにしておくところであろう。

しかし、今度はこういった日常への応用を到達目標にしようというのである。そうなると、「期待値の基準で判断せよ」と書かずに、自分でどのような値を用いるかを適切に判断させる力まで込みで身につけさせるというのが求められている目標であるはずである。

どのような定式化で不確実性の下での意思決定を扱うべきか?について、多少踏み込んだ説明する場合、期待値だけで意思決定をして良い?で純粋無垢に話を終わらせて良いとは思えない。そんな世の中は不確実性は期待値だけで判断して良いという、リスクニュートラル人間を大量生産する教育が適切であるとは思えないのですが・・・

理系のハイパーな人は文系のことぐらいすぐわかるとはいえ(余談)

こういうリスクの話を理解するとき、自分の場合はミクロ経済学の感覚をベースに理解している。そして、それは高校数学とは別枠の教育を受けて得た感覚である。よって、これが高校数学教師のの専門性だとは思えないんですよね。

数学の良くわかっている人なら、文系の話は簡単にわかるから後から勉強すれば良いだけだ、という主張もある。しかし、仮にそれが正しいとしても、そういう優秀な人ないしリスクの話に興味が持てる人って、教員業界じゃなくて研究職や民間に行くとと考えるのが自然である。よって、教育業界にはあまりこういう話が好きな人は少なくなりそうである。そう考えるとますますリスクの話は学校で教えることではないと思うんですけどね。。。。