期待値を意思決定に活用するって数学教師が得意なこと?

お上は最近やたらと数学を日常で使う例をやれと行ってくる。例えば、パブコメ案の指導要領では、数Aの思考力・判断力・表現力の部分に「期待値を意思決定に活用したりすること」とある。

しかし、確率がからむ状況での意思決定は、数学教員になる人が受ける教育で自然と習うことなのだろうか?理工系の低回生の本を読んでいて、そういう感覚が身につくのだろうか?それは違うのでは?ということを実感するために、簡単な例をみてみる。

考察する状況

次の2つのお小遣を貰う方法について考える。

  • 方法1. 確率1で3000円をもらう。
  • 方法2. 確率1/2で10000円・確率1/2で0円ををらう。

考えられる問題例

方法1と2のいずれかを選択する権利があるものとする。どちらを選択すべきか?理由をつけて解答せよ。

想定解答例1

方法2.の期待値を計算すると5000円になる。これを方法1の3000円と比較すると2.の期待値の方が大きい。よって、2を選択すべき。

想定解答例2

確率1/2でお小遣いがもらえないという事態が発生するとものすごく悲しい。逆に、普通の人(解答者が想定している)は3000円もあれ十分に満足して生きていけるので5000円あってもうれしくない。よって、お小遣いがゼロになるリスクを無理にとる必要はないので方法1を選択すべき。

想定解答例2で出てくる概念は数学か?

まず、想定解答例2を見て、それなりに共感的に理解してあげられる数学教師はどれぐらいいるのだろうか。この書き方よりさらに適当に同じことが書かれているときに、生徒側の意を汲んで読んであげられるのだろうか。疑問である。

想定解答例2を正当化する教科書的な理屈はある。例えばこんな感じ。

  • 小遣いxから得られる満足度をu(x)とするとu(10000)とu(3000)はほとんど変わりない。
  • 流動性制約に直面していて、かつ、固定的支払いが発生する場合も、方法1が正当化される。例えば、小遣いをもらう方は携帯代の支払いといった固定支払いがある。もし預金0であり、確率1/2で0が出たらその時点で破産である。すなわち、u(0)は限りなく大きなマイナスになる。

さて、この屁理屈は数学なのだろうか?やっていることは、「期待値を日常の意思決定に生かしている」から派生している話である。よって、お上としては数学なのだろう。

しかし、この考え方は、経済学(やそれに類する意思決定の分野の)の教科書的な考え方である。となると、社会的な見方や考え方に分類されるはずなのだが、どうなのだろうか?

純粋無垢系の数学教員にふわっとした感覚はあるのか?

屁理屈を見てみると、もはやそこには数式は何もでてこない。この作業にラベルをつけるなら「屁理屈を正当化できるようなシナリオを作る」といったところだろうか。

こういう屁理屈を高校数学の教員がうまく語るというイメージはない。社会の人もそれをうまく語れるイメージはない。だいたい、こういった意思決定感覚を持っている人って学校現場にはあまりいかないんですよね・・・・それでも教えろというのか?

さらりと扱う問題なら解答例1のみの説明でも良いが

数学の時間だから想定解答1のみを扱えば良い、という意見もあろう。私も基本的にはその意見に賛成である。こういった日常っぽい問題を、単元の最後のおまけにさらっと扱うのであればそれで良い。その場合、「期待値の基準で判断せよ」と問題文に書いて、答えを一意に定めるようにしておくところであろう。

しかし、今度はこういった日常への応用を到達目標にしようというのである。そうなると、「期待値の基準で判断せよ」と書かずに、自分でどのような値を用いるかを適切に判断させる力まで込みで身につけさせるというのが求められている目標であるはずである。

どのような定式化で不確実性の下での意思決定を扱うべきか?について、多少踏み込んだ説明する場合、期待値だけで意思決定をして良い?で純粋無垢に話を終わらせて良いとは思えない。そんな世の中は不確実性は期待値だけで判断して良いという、リスクニュートラル人間を大量生産する教育が適切であるとは思えないのですが・・・

理系のハイパーな人は文系のことぐらいすぐわかるとはいえ(余談)

こういうリスクの話を理解するとき、自分の場合はミクロ経済学の感覚をベースに理解している。そして、それは高校数学とは別枠の教育を受けて得た感覚である。よって、これが高校数学教師のの専門性だとは思えないんですよね。

数学の良くわかっている人なら、文系の話は簡単にわかるから後から勉強すれば良いだけだ、という主張もある。しかし、仮にそれが正しいとしても、そういう優秀な人ないしリスクの話に興味が持てる人って、教員業界じゃなくて研究職や民間に行くとと考えるのが自然である。よって、教育業界にはあまりこういう話が好きな人は少なくなりそうである。そう考えるとますますリスクの話は学校で教えることではないと思うんですけどね。。。。

文系には相関係数は内積で理解できない

相関係数内積だから、高校数学で内積をちゃんと理解しておけば相関係数は3秒で理解できる、という主張を最近ときどき見聞きする。そして、それゆえに、相関係数は高校生に教えなくても良いという過激な主張も見聞きする。しかし、内積についてイメージを持てる人って何人いるの?そして、内積がイメージができない人には相関係数など教えても危険だから教えるなってこと?と思ったりもする。

個人的には、そんなことはまったくないと思っているし、そうだったら困る。内積なしでもこれぐらいは説明はできるだろ、という手持ちの例の一つを以下に書いてみる。

相関係数0の例

ある定義が与えられたとき、極端な値をとるのはどういうときか?ということを考えることはまともな数学の勉強法の一つであるはずである。以下の例は、学生のときに数学科の人に作って、と言われて作ったものなので、数学の人も普通に考えることという話で良いのだと思う。次の問題を考えてみる。

問題

 (-3,0), (1,a), (1,3),  (2,0)という2変量のデータがあったとき、相関係数を0にするaを求めよ。

以下、確率側の言葉とデータ側の言葉の整合性を取る記述が面倒なので、確率変数の問題として議論することにする。

内積

この問題を高校生に説明するときに、2つのベクトル(-3,1,1,2)と(0,a,3,0)のそれぞれのベクトルについて、平均を引いてから直交するなどとやる、と説明するのだろうか?まあ、そうやって計算すればできるんだろうけど。

条件付きの平均で考える

今、データを眺めると、x=-3x=2のときのyの値は、0である。相関係数0ということは、たぶん何らかの「関係ない」ということだろうと。関係ないは、言い換えるとxがyを説明できないということであろうと言い換えられそう。

もし、x=1のときのyの平均がx=-3x=2のときのyの平均値と一致すれば、xがyを説明しているとは言いにくい。そこでx=1のときの平均が0となるようにa=-3と設定すれば良いのでは?と考える。そう考えて相関係数を計算すると、確かに0になる。

これが偶然でないことは、相関係数の定義式をxごとに並べて書き下していけば納得できるはずである。

「xが与えられたときのyの平均がどんなxについても同じであれば、xはyを平均の意味では何も説明していない。その状態が相関係数0である。」というこの話の理解に、なぜベクトルが必要なのか理解に苦しむ。相関係数0の解釈として、直交とこの解釈を比較したとき、文系脳の私には今の解釈のほうがすとっと落ちる。

なお、この例は独立ではないが相関係数0の例になっているはずである。Prob(y=0|x=-3) =1であるが、Prob(y=0)=1/2だから、x=-3x=2のときはy=0になりやすいので独立ではない、となるはず。

なお、こういう話をしたかったりするので、確率変数までは高校で扱ってほしいな、と思う。

同じ理解で他の例を説明しておく

たとえば、y=x^{2} の3点を(-1,1), (0,0), (1,1)ととったものも相関係数0である。y=0とy=1のときの平均が0で同じだから。しかし、xはyを説明している。また、同じ教科書にある円状のデータが0になるというのも理解できる。

これらの例をこんな感じでいじっておいて、ということで相関係数0でもxとyに関係があることもあるので、2変量程度であれば図を描こう、で終わる。あるいは、xを層別化して層ごとにヒストグラム描いて条件付き分布をいくつか眺めておこうとか。条件付けを色々帰るのに表計算ソフトはだるいから、Rでも使えた方が良いよ、なんて言ってみることもあると思う。

なお、高校教科書ではK社の教科書は、相関係数が0になる例がいくつか書かれている。しかし、どうやってそれをひねりだしたかがわからない。さすがにそれでは数学の授業としてね。。。

内積に頼らない説明を考えれば良いだけでは?

相関係数の用語程度は世間に出てくる。よって、内積の概念なしで、そこそこに理解させておこう、という説明を考えれば良いのでは?と思う。そして、ここに書いた感じの内積抜きの説明を探す努力はしてるわけ?と言いたい。

なお、上の例を理解するにはシグマすら必要ないですね・・・

手元の本に行列使って絵を描きつつ共分散行列のイメージを説明している本があるが、それが理解できない対象には相関係数を教えてはならないと言われると???ですよ。

高校理科の人の硬さのせいで私は理系をやめたので・・・(余談)

(私の半径3m以内で観測した)高校理科教師にありがちなのが、自分が「これが本質」と決めたら、それ以外の理解はありえない、とする。そして、自分に合わない人は下々なので見下す・関わらない・無視・排除あたりの行動を取る、という傾向が見受けられる。相関係数はベクトルの内積なんだからそれで理解できる、との主張は、その典型例のように見える。

また、高校理科教師は内容の理解だけでなく、理解のプロセスにも干渉する傾向が見受けられる(主観)。私は、理科の授業でそれを嫌なほど感じた。よって、とてもついていけないと判断して理系を選ばなかった。物理は後から自分で少しだけ勉強して面白いと思ったし、生物も最近参考書をみると勉強して見ても良かったかな、と思い出した。しかし、理科の教師の強要する学び方での物理や生物は面白くないんですよね・・・

やや燃えがちな言い方をするのであれば「あなたたちのやってることは掛け算順序強制の小学校教師と変わりませんよ。本質的には。」と言いたいことは何度もある。

数学の人はもっと柔軟なイメージがあり、「まあ都合の良いように定義しよう」というおおらかさがある気がする。

数学の問題集を計算機に解かせるのは情報の授業としてありだと思うが・・・

大昔、未履修問題が発覚したとき「プリンタで印刷して入試問題を解かせているから情報だ」という強弁があったことがある。当然、認められず補習をするはめになっていたはずである。

最近、真面目な教材開発モードになったときにやろうと考えていることは、数Aの教科書の問題やセットの問題集を計算機で解かせる教材の開発である。

この問題って情報と数学のどちらで扱う?

問題

最近、愛読している某サイトで、某有名工業大学の場合の数の過去問を、全て書き出すことで解くという話を見た。問題の一部はこんな感じ。

3個のサイコロ(1から6の目を持つものとする)を振って、その積が10の倍数になるパターンの数を求めよ(順番は区別する。(1,1,2)と(1,2,1)は違うものとカウントするということ。)

(元の問題は確率)当然、落とせない問題である(大数でもそうされていたはず。)。

とりあえずRubyで1行ではあるが

教育的なコードを書く、という制約を外せばRubyで3秒で終了である。Rubyの1.9系で加わったメソッドは便利便利。

a = (1..6).to_a
a.repeated_permutation(3).select{|elem| (elem[0]*elem[1]*elem[2]) %10 ==0}.length

こうすると72通りが得られる。(JavaScriptPythonで本当はやるべきなんだろうな。。。一般人に教えるときは。)

まあ、selectの中身をinject使ってきれいにしてもよかったけど、3つぐらいならベタ書きでも良いでしょう。

どう授業に落とし込むかは色々ありますよね

私が自分の情報の授業でこの話を扱うなら、Excelとの比較で扱うというのが第一候補。Excelの手作業で216通りは作ろうと思えば作れる。

手作業で216通りを作れるといっても、頭を少しは使う必要がある。例えば、最初に1を36個作って2を36個作って、次に6個ずつを刻んでコピーしていって、などと要領よくやっていかないと泥沼にはまる。36通りの2個のサイコロなら行き当たりばったりでもどうにかなるが、216通りとなると少し要領が必要である。

1個目の1から6を36個ずつ作っておいて、あとは1から6のサイコロ2つのペアを6回コピーすれば終わり、という見通しなどを持てない人もけっこういそうので、遊びがいがある問題である。

教えてやらせるか、教えずにやらせて痛い目を見せるかは対象によってわけると思う。だいたい、私の場合は、コイン投げ4回の表裏のパターンを全部列挙せよ、でも怪しいのが多いのを相手にしていますからね・・・(2進数のときにこの話をすることが時々ある)

こんな感じでExcelでひとしきりやっておいて、その後で「大人はずるい」と言いながら上のコードをみせるかな。Rubyのコードをオンライン実行して見せる。

Rubyは身近に感じられる対象ではないので教育として良くない、と言われ、かつ時間があれば、VBAで列挙の部分をやらせてみるというのも考えたい。高々3重なので、VBAでforを3回書いて(a,b,c)のパターンを並べたセルをざーっと作らせてしまえば良い。これは、あっさりと書けそうである。

PowerShellで変態的にやるというのも考えたい(これはデフォルトでどのパソコンにも入っているので言い訳はできない)。

もう少し意識を高く持つなら

自分で問題文の条件を変えて、手と計算機で比較してみるということをさせるというのもありそうである。「手では解きにくいが計算機だと一瞬な問題を作れ」という指示を出して作らせるかな。それをやると、いかに数学の時間が手でとけるように出題者側が手加減しているかということがわかってくると思う。そして、これは手と計算機の比較なので立派な情報の授業である。

数学の問題は説明を半分省略できるので授業しやすい

この手の数学の問題の良いところは、問題の意味を実感できないとか理解できないということがないことである。数学の時間で問題がどういうものかは全て説明済みで、だいたい手で解くとこまでやっている。

したがって、手作業の部分をこっちが教える必要はない。コンピュータで解くところから始めることができる。これは大きい。2単位って忙しいんですよ・・・それでも無理やり情報用に人工的な問題を作って扱わないとならないのだろうか・・・

でも、理系っぽくない情報の人は「これは数学だ」とか言いだすんですよね。。きっと。あと、情報教育の意識高い系の人もそう言いそう。

ピュアな数学の授業でやるには合法だが

そんなことやってる暇ないですよね。数学の時間に計算機を活用してはならないとは書いてないので、数学の時間でやる分は完全合法なのは明らかなんですけどね。

結局、数学だろうが情報だろうが扱い人が扱いたい時に扱えば良いというのが私の個人的な考えではある。しかし、世間は許してくれないんだろうな・・・・

教科横断的なので総合でも合法?(余談)

まあそこまでやる人はいませんよね。。。普通。

教科横断という言葉を耳にするが・・・(余談)

最近、新指導要領がらみで「教科横断」をやたらに強調する人が多い。しかし、そもそもの教科の割り方が不適切なことが多く見られる。割ってはいけないものを割って横断というのも変な話である。

個人的には、政経と倫理で公民科とか、水と油を混ぜているような組み合わせにしか見えない。混ぜるなら、政経と地理と倫理の心理学っぽい部分で一括りにして(論理・データ・モデルの色合いが強い分野)と、残りを一括り(文献読解で考えていく)の2つに割るのが適切な割り方だといつも追っている。

情報も特にそんなとこがたくさんあるんですよね・・・

数Iのデータの分析では統計量の数学的な理解は求められていないような

数Bの統計推測実質必修化の批判のついでに、数Iのデータの分析を批判する言説をみかけた。さすがにこれはどうかと思った。

だいたい、データの分析をいわゆる「演繹的な数学」(といっても大学の数学科数学からすると高校数学は全部数学的でないんだろうけど)として扱う準備がない状況で、データの分析を数学で扱うのはおかしいという意見がある。それに関して思うことを書いておく。燃えないように注意して書いたつもりではあるが・・・

学習指導要領は理論的に統計量を扱えと書いていない

現行の指導要領は次のように書かれている。

四分位偏差,分散及び標準偏差などの意味について理解し,それらを用いてデータの傾向を把握し,活用すること。

パブコメ版の指導要領の、知識・技能の部分にはこう書かれている。

(ア)分散,標準偏差,散布図及び相関係数の意味や扱い方を理解すること。
(イ) コンピュータなどの情報機器を用いるなどして,データを表やグラフに整理したり,分散や標準偏差などの基本的な統計量を求めたりすること。

統計量の定義を正確に書き下せるようにしろとか、手計算で数学的に分散・標準偏差相関係数を理解しろとは一言も書いていない。だいたい、(データの傾向を把握し活用する前提としての)統計量の意味や扱い方を理解するのに、統計量の数学的な理解は絶対に必要というわけではない。ましてや、ベクトルの内積相関係数の関係などを理解することなども必要ない。

せいぜい次のように適当(厳密でないの意味)な定性的な話などをすれば良いだけである。(以下、説明は超適当。主観と余談もかなり入れている。)。

  • 分散・標準偏差は散らばりを表す統計量である。散らばりがないときは0。散らばっていれば散らばっているほど分散や標準偏差は大きくなる。
  • 分散・標準偏差の大小によって、極端なことの起こりやすさの推測ができることがある(この視点がないと、現実の面白い話ができないので。)。
  • 相関係数は1から-1の値を取る統計量である。データがだいたい右上がりの直線状になっていれば1、右下がりの直線状にそうでなければ-1。0の場合はあまり関係ない。
  • 1次関数に類する単調に増加や単調に減少っぽい関数以外では相関係数はあてにならないケースがありえる。とりあえず散布図は必ず描いて眺めとけ。
  • 相関は因果を意味しない。
  • 極端な分布になってなければ、だいたい分散・標準偏差相関係数で何かを判断しても大火傷はしない。
  • 世の中例外も色々あるから必ずヒストグラムや散布図は描けるなら描け(元データが手元にあるならということ)。重要な意思決定をするときには、統計量の大小だけでいい加減には判断するな。
  • 図を複数枚・複数回微妙に条件を変えながら描くのはExcelではだるい。データのからむ意思決定で生活変わる人はRなどの統計ツールを学べ。

K社の教科書は、指導要領の趣旨をかなりふまえた扱いになっていると個人的には思う。上の話も、K社の教科書に書かれていることにかなり影響されて書いている。なお、S社の教科書はその真逆であると思う。センターも、基本的には指導要領の趣旨に合っている出題であると感じている。

この程度の話を1年のときに5時間程度割いてするのに反対するって何なの?と思わないでもない。

変な扱いをする人は確かにいる

問題は、高校の中途半端な授業である。延々と手計算の練習や意味不明のパズルを(これは、前課程の数Bがベクトル・数列と選択になっていた関係で点数調整せざるをえなかった影響を受けている。)させたり、データの傾向と統計量の関係を理解してるか?と称して、(現実のデータ分析とは何も関係ない)暗号解読のような図の解読をさせる問題も定期試験ではみかける。(まあセンターもそうだと言えないこともないが。ただし、現実のセンターはデータはちゃんと面白い物を使っている。)

そういう問題をみると「現実社会で、そんなに細かい関係が必要なら、元データを使ってそれを調べるか、それに適した図に書き換えれば良いだけだよな。まあデータ触らない人はそういう感覚ないから仕方がないか。」という感想を抱く。

しかし、高校側の気持ちもわかる。教科書や問題集にあってインスタントに使える、という現実のデータの分析の例や演習問題があまりになさすぎるというのが現状としてあるのでね。。。

現状も用語知ってますか?程度の扱いですよね

これらを踏まえて、まあ、入試で出して小問1問程度、用語知ってますか?ぐらいの扱いでやれば良いのでは?と思う。そして、それは入試の現状に近いのではないかと思う。

センターは(わりと題材自体は)良い問題を出して、それなりに配点も取っている。しかし、あの問題に対策時間を割いている人もあまりいないと思う。センターの問題は差をつけるために不自然な扱いもあるが、結果として、そんなに差はついていないはずである(数年前の報告書でそう読んだような気する)。ということで、これも小問実質1問扱いのようなものである。何も問題ない。

この程度の用語ぐらいを大学進学者に知ってますか?と聞くのに何の問題があるのだろうか。勉強時間をそんなに割かしているわけでもないし。普通の歴史上の有名人物をちょっと聞いて見ました、程度の話ですよ。こんなもの。

これが数学か?には議論の余地があるが

数Iのデータの指導要領のこの扱いは、演繹的な数学か?と言われると微妙である。「数的リテラシー」とラベリングするのが適切であると思う。では、高校までで終わる人々にこの程度の話を誰も教えなくて良いんですか?特に「大学で教えるから問題ない」と行っている人々。

数IAの持つ政治的性質

数I・数Aというのは、大学進学ルート以外の人に強制できる最後の数学である。よって、ここでどう完結させるのか?という視点からもこの問題は考えられなければならない。これを意識してるのか、数Iは中学4年生的になっている。そうなると、簡単なデータリテラシーは数Iに入れざるをえないと思う。。

だいたい、少しおまけでデータの分析をやるぐらい(進学校で時間数を大量に強制させる枠組みであれば私もまずいと思いますよ)、なんでこんなにまで文句を言われなければならないのだろうか。わからない。

1年の数学はあとで学ぶための基礎的なことを、と理科の人が発言しているのも見た。それをしたいんだったら、大学進学数1と非大学進学数1の2つを作れば良いだけの話である。ただ、その路線は失敗したけどね。2つ前の課程で。数学基礎ってどうなりましたか?

数的リテラシーを誰が教えるの?と言われて数学以外と言える?

高校は大学進学の人だけのためのものではない。そういう人たちに対して、高校で誰が数的リテラシーを教えるのだろうか。単位数とスタッフの揃い方を考えると、数学の時間に数学教師が教えるしかないでしょう。良いか悪いかは別にして。だから文科も数学にねじこんできてるわけでしょ?数学でないと生徒にいろんな意味で強制できないので。情報の教師にそれができるとは思えない。

数学でデータの話を扱うのが嫌なら他に居場所を作る運動をおこしてください

個人的には、データ絡みのあれこれは、情報の教師が情報の時間に全て教えてしまうのが適切だとは思う。情報のIの最初の単元の社会っぽいことを公共に追い出して、情報デザインの単元を中学美術に追い出して、の時間は捻出できる。

そうして、情報をかっちりと理系っぽくしておいて、情報をセンターあたりで入試科目に入れて(そうしないと実効性が担保されないから文科は納得しないので)、情報教員もそれなりにまともなのをそれなりの人数採用させることにすれば数学から統計追い出せますよ?どうですか?

情報で全部データを見るとなると、個人的には気分が良くなる。今回の課程は「データに関して情報と数学で連携を深める」とかお上は言っているが、力関係の差をふまえるとこれは「数学に気を使う」になることが目に見えている。一般的に、他に気を使って何かをやるのは非効率である。それなら、情報で完結して全部自分の好きにやってしまえるほうがスッキリする。

いきなり全員必修の入試科目として情報をいれるのは大変だと思う。よって、まずは理科の選択科目として情報を入れてくれないかな、とか思っている(化学はいやだけど物理と情報で受験ができるなら理系にしたかったという個人の願望でもるが・・・・)。数学科とか情報学科は理科2科目は変だと思いますよ。特に化学。だったら化学の代わりに情報で良いと思うのですが。

あとは経済学部とかの社会科学の学部も国語(古典)の代わりに情報の試験で良いと思うんですけどね。モデル化なんて、社会科学系の学問でやることそのものですから、それをダイレクトに試験するで良いと思うのですが。

色々書いたが燃えないことを祈りたい・・・・

最近やっと上段の数値キーをタッチタイピングできるようになった

少し前に、Excelをやるならタッチタイピングできて当然、みたいなことを言われた。私はこのとき?となった。(事務屋さんでない)私からすると、大量の数値データはファイルから読み込むものである。決して、タイピングするものではないという認識であった。しかし、商業高校的な発想ではこれは正しいものだと思う。

ただ、自分がテンキーの練習をする気分にはなれない。自分の使ってるキーボードにはテンキーがないからである。Happy HackingのJPを使っているからである。自分がキーボードに求める条件、親指シフトがやりやすい・キータッチがまとも・Macでもトラブりにくい、という条件でキーボードを選ぶと、これ以外の選択肢がないのである。

さらに、机も乱れがちなので、キーボードはコンパクトな方が良い。したがって、今後もできればテンキーはなし生きていきたい。

上段数値キーの練習をやる意味はあると思う

ホームポジションから意識的に手を動かす打ち方の習得

ホームポジションの段以外を打つときには、指を無理やり伸ばすのではなく、手のひらごと移動してしまってから打つ方が自然である、というのをとあるサイトで発見した。

上段の数値キーのみを動かして打つときは、さすがに手ごと動かして打つのが自然である。そこで、今回、上段数値キーを練習するにあたって、アルファベットを打った直後に数値キーを打つときも、手を意識的に上に動かしてからキーを打ってみることにした。

手を大きく上にシフトさせて打ってみると、それはそれで問題なく打てることがわかった。よって、このような打ち方もバリエーションに加えておく方が良いと思った。確かに、自分だってどんなときでもホームポジションから指を伸ばして打っているか?と聞かれたら?であるわけですしね・・・(もっとも、メインは親指シフトだからそもそも独特な動きをするわけですが。)。

また、この経験以後は、初期指導の段階でPなどを打ちにくそうにしていたら、わざと0.5段ぐらい動かしてからキーを叩いて見たら?などということにもするようになった。

Excelの数式中の数値を打つ程度でテンキーに指が行くのは無駄

Excelで関数を打ち込むときには、アルファベットキーと数値キーを組み合わせて打つ。そうなると、テンキーと通常キーを往復するのがうっとおしい。よって、上段数値キーも使えた方が良いと思う。

また、プログラミング等をするのであれば、上段の記号キーを使うことはそれなりにある。よって、最上段のキーも叩けたほうが何かと便利である。最上段の記号キーを自然に叩けるようにする準備段階として、上段の数値キーはそれなりに使えるのではないかと思われる。

さらに、簡単な数式を打つ場合も上段の数値キーを使いたい。a_1とかx+1>5ぐらいを打つ時にいちいちテンキーに手が行っていたら時間が無駄で仕方がない。

次は記号を叩き込みたいが・・・(余談)

次は記号のタッチタイピングを体に叩き込みたい(だいたいは覚えているのだがときどき?となる。)。このサイトで記号を叩き込ませようとすると、USキーで叩き込むことになっているので、あまりうまくいかなかったのである。

このサイトの記号を自分がやったがあまり効果はあがらなかった。また、プログラミングが必要そうな人にやらせてみたが、やはり効果があがらない。US配列前提の練習順なので効果が薄いと思われる。

何を目的にタイピングサイトを探していたかというと・・・(余談)

私はタッチタイピングの初期指導はmikatypeを使う人である。苦行はまあ耐えろ、ということで耐えさせるのである。しかし、その苦行すら耐えられないというタイプが出始めたので、色々と練習メニューの幅を広げるために色々とサイトを探していたのである。

このサイト、スモールステップでよろしいと紹介されていて、現にそういう意味ではよろしかった。即座に実践投入をしても良いのだが、試せるときは自分が人体実験をしてから試すのがポリシーである。そこで、人体実験を兼ねて数値・アルファベット混じりのブラインドタッチの練習に取り組んだわけである。

タイピングが使い物になるまでにかかる時間を知りたい(広い学力層で)

キーボードによる文字入力は1時間ぐらい練習すれば、あとは慣れでなんとかなるという言説が世間では横行している。その影響で、文字ぐらい打てるようにできて当然だろ?という空気を、私の半径3m以内では感じる。

しかし、インターネット上の言説は、PCが得意な人が書いているものと思われる。まさか、タイピングを身につけられなかった人が、インターネット上にタイピングについての情報を発信するわけがない。そういう意味で、少し楽観が過ぎる方向に偏っていると思わないでもない。

練習時間を取ってくるにはまずどれぐらいでタイピングがマスターできるのかのデータが必要

キーボードタイピングが1時間で身につけられるのであれば、時間のやりくりなどというものは必要ない。しかし、問題はそうでない場合である。この場合は、それなりの時間の調達が必要になってくる。

参考となるデータが古すぎる

親指シフトwikipediaの項目からリンクされている、日本能率協会総合研究所の独自の調査(1983年)では、ローマ字入力を2時間で1分13文字(グラフを目で読み取ってるため確実なことが言えない)ぐらい打てるようになる、と書いてある。しかし、まずこれからして本当か?と言いたい。

私の脳内には、世間でみかけるものとは違うデータがある。ただ、きちんと記録化していないためなんとも言えない。表に出す合意を取って取っているデータなので表にも出せない。

もし、仮にかなり古い調査が正しい傾向を表すものであったとしても、ローマ字入力のとき練習時間30時間で1分40文字、すなわち手書きとイーブンになるということである。1分30文字で妥協するとしても練習時間が20時間はかかる。

30時間はだいたい1単位

1単位30時間と仮定すると、1単位分を差し出してやっと手書きとキーボードが同じになるということである。しかし、常識的に考えてこの時間数は差し出せない。この時間を学校のどこかから差し出そうとすると、何らかのやりくりが必要である。

このやりくりをするためには、まずそもそもの時間の見積もりが必要になってくる。そのための基礎データがどこにもないのは困るのである。そのデータがないと、何時間練習時間くれとか言えないので困るんですよね。。。

上流階級を見ている方の言動の平和さがうらやましい(余談)

世間の優雅さにときどきいやになることあれこれをつらつらと書いてみる・・・・

中学技術でパソコン教室レベルのことは身につくらしい

最近、中学校の技術でパソコン教室レベルのことは済んでいるはずだ、という言説をみかけた。しかし、技術の時間数何時間かわかってる?と言いたい。3年間で技術は2.5単位で、さらにその1/4がコンピュータであるとすると、中学校でコンピュータに触れるのは0.6単位である。大雑把でいうと20時間である。それで何ができるというんですか?どんなにとっても30時間でしょう。

PowerPointで作ったスライドの原稿が手書きというのは良くある

教科書は、手書きで構想メモを作り込ませておいてプレゼンの作成ということになっている。それも一つのやり方としてはありとしておこう。それしか作り方を許さないなら許せないが。

しかし、私が何度も見た恐ろしい光景は、プレゼンのスライドはPowerPointで作って、発表原稿は手書きで書くというものである。再利用って何かわかってる?と思わず罵声を浴びせたくなる気分である。手書きでどうやって共有するの?とか。こんなことするぐらいなら、PowerPointでプレゼンをやらせないほうがましというのが私の個人的な思いである。

ペーパー学力が低いほど眼鏡としてのPCの効果は大きいと思うのですが

「別にキーボードぐらい使えなくてもなんとかなる。漢字や計算の方が大事。」といって、まずPCの前に学力という言説を取る人々の存在もどうなのかなと思わないでもない。

だいたい、PCなしで生きていける高スペックな学力のある人はそれで良いんですよ。それを言っている人は、手書きができる器用さと脳内で全てを考えられる脳をお持ちだから良いのでしょうと。じゃ、そのスペックがない人はどうするの?って話ですよ。

手書きと素の脳でなんとかならない人こそ、PCという補助脳の使い方を教えないとならないんじゃないでしょうか?と言いたい。PCなんて眼鏡みたいなものですよ。手書きと脳内暗記が苦手な人の能力を補助してくれるのだから。

センター試験を受けない層で、どうやっても漢字・計算・暗記ができないのであるならば、そういう層にそれ以上同じことを繰り返させても勝算は薄い。

素でできないなら、せめてPCを使って何かはできるようにはさせたい。 手で分数計算できなくても、PCを使って計算はできるようにはしておきたい。手で漢字が書けないとしても、PCで漢字は書けるようにはしておきたい。スマホでもという説もあるが、まだ仕事はPCが多い。手でできなくてもPCでできればしのげるシーンはかなりある。

また、現状の学校の設備を考えると、PCを使った国語や算数をやろうとしたら、キーボードが使えないどうしようもない。よって、キーボードタイピングは基礎学力と同等だと私はみなしているんですけどね・・・

「GUIはCUIより優れてる」だけ説明しているだけではね・・・

GUICUIについて、たいていの情報の教科書はGUIがわかりやすくて優れている、みたいな書き回しになっている。そして、そういう説明を踏襲して、試験にそのまま穴埋めという人が多くのパターンであろう。

教科書は、使用機会が減りつつある回線交換方式とパケット交換方式のメリット・デメリットのような、今時もうそんなの比較しないでいいだろう的なことにはページ数を割されていることが多い。ひどい場合は「メリットとデメリットを考えてみよう」という、いやそんなの考えられるわけないだろうという課題になっていたりもする。しかし、いまだに滅びることのないCUIのメリットは書かれていないのである。

したがって、ほとんどの場合、CUIの良さを体験させる実習などはされていないはずである。

こんな簡単な問題一つとっても自分で用意して話さないとならない

実際に説明するかどうかは別にして、私はExcelとRの比較・PowerShellでファイルをごにょごにょするなどあたりで、なんとなくCUI的なものの良さをデモしながら説明できるネタは持っている。ネタの質はともかくとして。ただ、それがないとGUICUIの比較を話していて納得できないから、考えておいているだけである。

情報の授業の質が上がらないのは、こんな単純な問題を考えること一つ取っても、受験参考書ほどのお手軽な資料が存在しないからであると考えている。実習ネタを一つ作るにしても、自分で一から全部書いてしまわないとならない。

自分は仕事を片付けるためにスクリプトを書くようになったわけで

私がちょっとしたスクリプトの書き方を学んだのは、そのほうがシンプルに仕事が早く片付くことがわかったからである。

学部のときは、プログラムらしきものは基本的には一切書かずにになんとかしようとがんばっていた。そういう行為は、情報ができる人と競争することになるのでやめとこうとも思っていた。エディタとか正規表現ワイルドカードに毛が生えた態度)はうまく使ったりとかもしていた。

しかし、学部の終わり頃に、Rの本に書かれたサンプルをみて、自分がExcelでひねりにひねって考えたものが1行で終わることがわかった。それを見て、これは脳みそ使うより、さくっと一行で何かが書いてしまったほうが楽だわ、ということで改宗して、多少のスクリプトは書くようになったのである。

それまで、プログラムというのはごちゃごちゃ書くものだと思っていた。しかし、さくっと書けるものも世間には存在することを知った。それならまあやってやるかということでやり始めたわけである。今の情報の科学の教科書見ていても、javascriptでごてごてとか、いや、やる気にならないよって感じである。

一般人にはアルゴリズムやゲームよりまずスクリプト

プログラミングでコンピュータの面白さや仕組みなどどうこうは一般ぴーぷるの教育にとってはどうでも良いことである。まずは、呪文がいかに生活を簡単に便利にするかを示すのが先でしょう。

簡単なスクリプト書いて色々とやっつけだすと、楽に書けるようにデータの側や制約を入れて置いたほうが良いとかいう習慣もついてくる。データをコンピュータに優しい形にしろ、とかいうことも自然と身についてくるはずである。

だいたい、コンピュータを使いこなせると楽ができると教えないと、物好き以外やる気にならないと思っている。そして、楽が素晴らしいはこの業界としてはまともな価値観であるので、この価値観は教えて良い。

こういう考え方ゆえ私はExcelは基本しか教えない

複雑な集計は、Excel以外の道具でやるべきである。そういう発想は、自力では思いつかない。教育として他人が教えるに値する。

奥村先生のリテラシー本のExcel集計の例みたいなのがたくさんある

奥村先生の学部一回生向けのリテラシー本の最後には、複数ExcelをRのパッケージでまとめて集計する例がある。

ああいうのがたくさんあるとね・・・

私はPowerShell開いてcat *.txtで、ざっと全員分の入力テキストファイルを開いたりしてみせたことも多いが・・・・